走ってナンボ

アルファ・ロメオを始めとする「ちょっと旧いイタ車」を一生懸命維持する中での天国と地獄をご紹介します。

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父の戦争

今年も8月になり、太平洋戦争のドキュメンタリーや映画がテレビで放送されるようになりました。

後の歴史家がその戦争の意義と背景を客観的に分析することはとても重要なことだと思いますが、どんなに意義があったとしても、戦争が人間の行う最悪の所業であり、その結果が悲惨であることに変りはありません。

1945年8月15日に日本はポツダム宣言を受諾し太平洋戦争に敗戦したのですが、交戦相手国にとってこの日は対日戦の戦勝記念日でもあります。日本ではこの8月15日を「終戦記念日」と表していますが、私はこの「終戦」という言葉に何となく欺瞞的な意図を感じてしまいます。確かに日本はポツダム宣言という降伏条件を受諾したので、その条件そのものが無条件降伏に近いものであっても、無条件降伏ではないという論拠は理解できますが、それはやはり「敗戦」でしかなく、「講和」でも「終戦」でもなかったと思います。
昔から日本では「撤退」や「敗走」を「転進」と呼び、「全滅」を「玉砕」と言い換えてその本質を誤魔化して来たのですが、その誤魔化しの延長線にあるのがこの「終戦」という表現のような気がします。

一昨年に他界した私の父は従軍体験者です。その証拠?に父は通常の国民年金、厚生年金に加えて定年まで勤めた銀行からの企業年金、そして軍人恩給を受給していました。そういった意味では最も手厚い年金受給者であったと言えるのですが、その従軍体験については生前あまり語ることはありませんでした。

一方で、私の叔父はアメリカ人で同じく太平洋戦争の従軍体験者です。実は、私の叔母が戦後に進駐軍としてやって来た米国海軍のパイロットと結婚したからなのですが、私がその事実を知ったのは確か中学生くらいの頃だったと思います。
何故なら、叔母が叔父と結婚した当時の日本では、こうした国際結婚は親族にとってあまりいい顔はされず、交際している時も叔母が叔父から貰ってくる米軍の物資を喜ぶ一方で、陰では随分と酷いことを言われ、叔父が帰国することになり、結婚して叔母を連れて行きたいと言った時に、勘当とまではいかずとも絶縁状態となり、音信が途絶えていたのです。

こうして叔母は叔父とともにアメリカに渡り、しばらくは海軍基地のあったサンディエゴに住んでいましたが、その後に叔父が退役して、航空機メーカーのグラマン社に勤務するようになってからは、転勤でシアトルを始め、ドイツや北欧などを転々とし、叔父がリタイアしてようやくまたカリフォルニアに戻って来ました。
グラマン社は現在に至るまで数多くのアメリカ海軍の航空機を製造してきたメーカーで、戦時中はF4Fワイルドキャット、F6Fヘルキャット艦上戦闘機に始まり、近年のF-14トムキャットに至るまで、一時期は空母に搭載されている全ての固定翼機がグラマン社製だったほど米海軍とは密接な関係のある航空機メーカーです。
叔父は大学でエンジニアリングを専攻していたために、退役した後にこのグラマン社の技術アドバイザーとして実際の飛行経験を基に主にセールスサポートを行っていたのです。

再び親族の付き合いが始まったのは私が大学生のときで、来日した叔父とつたないながらも英語で会話ができるのが私だけだったこともあり、叔母の通訳を介さずに様々な話しをしました。
叔父は私が飛行機好きであることをいたく喜んでくれ、その後もグラマンの広報生写真やらサンディエゴのミラマー基地のPX(売店)で様々なグッズを買っては送ってくれました。ちょうどその時、映画「Top Gun」が全米で公開され、日本での公開前にいち早くビデオを送ってくれたのですが、字幕がないために見るのに往生した記憶があります(笑)。

TBM.jpg

戦時中、彼は写真のTBMアベンジャーという雷撃機のパイロットでした。このアベンジャーという雷撃機は不恰好ながら、日本の艦船を多く撃沈した名機なのですが、叔父自身は幸いなことに偵察任務が殆どで、実際に雷撃を行うような戦闘に参加したことはなかったそうです。事実、叔父が空母に配属された当時は、戦艦大和も既に撃沈されており、連合艦隊の艦船は殆ど残ってはいませんでした。

EssexClassAC.jpg
写真はEssex級航空母艦ヨークタウン(二代目)

叔父が乗り組んでいた空母の名前は失念してしまいましたが、Essex Classと言っていたのは憶えていますので、米国海軍の大型の正規空母だったのでしょう。このEssex級航空母艦は1942年から就役を始めた米海軍の空母で、戦後も改造されながら1991年まで現役であった名艦です。

そして父は戦時中は大学生で明治大学に通っており徴兵を免れていたのですが、理系ではなかったために法律改正に伴い、ついに徴兵されることとなりました。
父は学徒出陣の二期生で、実際に入隊するときにはニュース映像にも残っている一期生の「雨の神宮行進」といった華々しいセレモニーもなかったそうです。徴兵された陸軍では砲兵隊に配属されたものの、その当時には父を外地に運ぶ輸送船すらなく、無駄と知りつつ高知の海岸で本土決戦に備えて砂浜に竹槍を刺してバリケードを造ったり、タコツボと呼ばれる兵士が隠れる穴を掘る毎日だったそうです。
結果として米軍の本土上陸作戦前に日本は敗戦し、父も生き残ることができたのですが、父の同期の友人の中には人間魚雷「回天」という特攻兵器に乗るために訓練中に命を落としたり、戦艦大和に乗り組んで戦没した者もいたそうですので、やはり徴兵されることは明日をも知れぬ命であったのです。

別の機会にその当時の気持ちを父に聞く機会があったのですが、どんなに大本営発表で日本が勝っていると言われても、度重なる空襲と物資不足からとても日本が優勢とは思えず、最後には高知の海岸で上陸してくる敵と刺し違える覚悟はあったものの、それで戦争に勝てるとは思っていなかったそうです。では、それでも何故戦うのかと聞くと、自分達が敵に多大な犠牲を強いることにより、少しでも有利な講和ができれば・・・という思いだったそうです。そして当時のインテリと言われた大学生はその程度の戦況分析力は持っており、父と同じく徴兵された同級生も皆、同じ気持ちだったそうです。
一方の母は戦時中は通っていた女学校が飛行服の縫製工場となり、鉢巻を締めてミシンを踏む毎日だったそうで、被弾し不時着したB-29を見に行った時に、機体の傍で亡くなっていた敵の搭乗員の着ていたフライトジャケットを見て、自分達が縫製している飛行服との違いを初めて知り、これは負けるのではと思ったそうです。

そして、叔父と一緒に酒を飲み始めて酔っ払った父は、私に通訳しろと言ってとんでもない話を始めてしまったのです。

父の部隊は高知の海岸線で米軍の上陸を水際で撃退するのが任務だったのですが、毎日決まった時間に決まった方向から偵察にやって来ては、民間人であろうが動く物を見つけると適当に機銃掃射をして行く米軍の艦載機には閉口していたものの、応戦許可が出ずに飛んで来る時間になると隠れる毎日だったそうです。
飛んできた艦載機は写真のチャンスボートF-4Uコルセアという戦闘爆撃機で、独特のガルウイングからすぐに分かったそうです。

F4U4.jpg

しかし、そんな父の部隊にも応戦するチャンスが訪れます。師団命令で、本土決戦に備えて細々と補給される機関銃の弾丸が一定の量になったら応戦して良し、と言われていたそうなのですが、ようやくその規定の弾薬が溜まったのです。そしてその攻撃の指揮を大学生であったために陸軍少尉として任官していた父が執ることになりました。

92HMG.jpg

父の部隊には対空機関砲などはなく、92式重機関銃という陸戦用の機関銃しかありませんでした。しかし92式重機関銃は口径7.7mmで発射速度は遅いものの光学式の照準器を備えており命中精度が高い機関銃でした。
対空戦闘での最大の問題は弾道の目視で、飛行機の機銃や対空機関銃には通常は曳光弾と呼ばれる光る弾丸を一定間隔で通常の弾薬に混ぜて発射することにより、その弾道を目視できるようにするのですが、陸戦用では弾着する先は地面や建物ですので、この曳光弾は必要なく、補給された弾丸にも曳光弾はありませんでした。

しかし、敵機は一度も応戦されたことがないために完全にナメ切っており、警戒することなく毎日定期便のように2機編隊で、決まった方向から高知の海岸に侵入して来たために、父はその敵機を最も狙いやすい位置に機銃を据えて、予め試射をして弾道を確かめて、コルセアが飛んでくるのを待ち受けることにしました。万が一討ちもらせば敵機からの反撃は必至でしたから、そのまますぐに退避できるように岩場の陰を選んで、予め退避路も確保しておいたそうですので、父を始めとする機銃隊全員はそこで死ぬ気などさらさらなかったのでしょう。

そして、ついにコルセアがやって来ました。やはり前日と同じお決まりの偵察コースです。

その時の父も機銃隊全員も攻撃できることを素直に喜んで、勇気百倍だったそうですが、冷静に考えると実にリスキーな攻撃でした。陸上戦闘用では重機関銃という名前でも7.7mmという口径の機銃は対空機銃としては豆鉄砲のようなもので、仮に命中したとしてもコルセアを始めとする当時の米軍機は防弾装備が行き届いており、撃墜することは難しかっただろうと思います。

さらにこの92式重機関銃はベルト給弾式でマガジン一つには30発しか弾丸がなく、相手が飛行機であるとせいぜい撃てるのはマガジン交換の時間も入れると60発が限度でした。ですので、せめてもの優位性は相手が警戒していないことと、最初から狙いをつけておけるということしかありませんでした。
私は父がこの話しをしているときに真っ先にこの指摘をしたのですが、父はそれには答えずに、「当てる自信があった」としか言いませんでしたが、もし私が指揮官であったなら92式重機関銃では攻撃しなかっただろうと思います。
しかし、父の部隊は予定通り攻撃を行いました。最初の30発のマガジンを撃ちつくしてもコルセアはびくともしなかったために、危険を感じた父は攻撃止めという命令を出して機銃隊を退避させたそうです。
ここからは想像なのですが、射撃した弾丸が曳光弾ではなかったこととマガジン一連のみの射撃であったことが結果として功を奏し、ひょっとしたらコルセアは撃たれたことにすら気づかなかったのではないかと思われます。

攻撃は失敗に終わったかと思われたのですが、たまたま機銃弾がエンジンに当たったのか、後に2機のコルセアの内の1機が洋上に墜落したとの連絡を受け、父の機銃隊は褒美に一升瓶を部隊長から貰ったそうです。

この話を酔っ払った父は、叔父に通訳しろと言いながら話したのですが、「オレはシコルスキー(当時のコルセアの日本での呼び名)を撃墜したぞ」で始まるこの話を通訳し終えたとき、叔父は複雑な表情で私にパイロットはベイルアウト(パラシュート脱出)したのか聞いてくれと言われたのですが、父は墜落したところを見ていないために分からないとしか答えられませんでした。

最後は二人とも酔っ払い、「不幸な時代だった」ということで終わりにしたのですが、あの時の叔父の表情を忘れることはできません。

戦争がなければ出会うことのなかった叔父と叔母ではありますが、両国で戦争を経験した方がどんどんと鬼籍に入り、こうした戦争の記憶が語られることがなくなるということは同時に、米国はともかく日本人に戦争のリアリティを失わせて行くことになります。
せめて、生でこうした話を直接聞くことのできた私達の世代が書き残しておきたいと思います。

(この記事はフェイスブックのウォール記事で書いたものを加筆再編集しました)

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テーマ:戦争 - ジャンル:政治・経済

コメント

510190さんは本当に素晴らしい話をして下さいました。
こういった身近での話が本当の後世に残さなかればならない話ではと感じます。
私の父も多くを語らなかったです。余程、嫌なことが有ったからに違いないからだと思いますが、胸には抉られた様な大きな傷があり、九州で特攻機の整備をしていたが満足な部品が無いまま送り出していったと。それだけしか聞かされなかったですが、510190さんはそれだけの話を訊けたのが羨ましいですね。

  • 2012/08/02(木) 22:25:53 |
  • URL |
  • Chousuke #-
  • [ 編集]

>Chousukeさん
戦争体験がある方は想い出したくない記憶だと思います。それは軍人であっても民間人であっても同じ感情で、伝えなければ・・・という思いがない限り、原爆の被爆体験、空襲の体験などはあまり語られず、せいぜい空腹だったことや、物資不足で様々な工夫をしたという生活体験程度ではないかと思います。

私の高校時代の先生で尾川正二先生という方がいらっしゃったのですが、この先生はニューギニアで従軍体験があり、餓死した戦友の人肉を食したという極限体験を教室で語ってくれました。
先生は『「死の島」ニューギニア―極限のなかの人間』という著作の中でも記されているのですが、そこには華々しい武勲も、激しい戦闘もなく、ただただ熱帯の密林を怯えながら行軍し、飢えや感染症で次々と死んでいく戦友を看取りながら、それでも生きようとする人間の壮絶な生き様のことしかなく、それが戦争の本質であることを静かに、そして淡々と語ったその先生の表情と異様なまでに静まり返った教室が強く印象に残っています。
この戦争のリアリズムを持ち続ける者こそが、真に国防について論じることができると思います。
あと10年もすると、太平洋戦争を経験した人々は殆どいなくなってしまうでしょう。
そして歴史的事実としてすら戦争の本質が語られなくなったときに出てくる好戦的な考え方こそが一番危険だと思います。

  • 2012/08/03(金) 05:50:14 |
  • URL |
  • 510190 #-
  • [ 編集]

お久しぶりです。
私の亡き父もボルネオで敗走していました。
父は台湾人でしたから、当然のごとく"日本兵"として徴兵され、シンガポールからボルネオと転戦していて、初期には捕虜監視の任に就いていました。
しかし、ご存知のようにボルネオでの敗走でも過酷であり、映画やドラマのような弾薬の温存はしなかったとのこと。
それはジャングル内を逃げるのに弾薬による重量は想像以上であり、食料不足による体力低下には疲労増の何物でもなっかようです。。
差別的発言ではありませんが、敗走するジャングル内での現地食料確保においては、日本人は何が食べられるかが分からず餓死していきましたが、父のように台湾出身者は南方地域での現地調達は日本人よりかはマシだったそうです。
最後はオーストラリア軍に捕虜となった後に終戦を迎え、マラリアを発症していたことから日本本土に送られ、経緯はわすれましたが旧巣鴨プリズンに収監されました。
父の場合は戦争体験をよく話していましたね。

それと、台湾人による軍属には軍人恩給はありません。
また、徴兵時に日本軍が預かった金銭についても返金はされませんでした。(預け損)
1960年代と思いますが台湾人軍属による預貯金変換訴訟をしています。
結果は貨幣価値を付けない当時の預けた金額のまま返金に応じるというものでした。
結局、日本兵として従軍した台湾人の多くは日本政府からの見返りは一切無かったようで、戦後、父は無一文から日本での生活を始めました。
父の場合、理由は分かりませんが、1960年代まで日本政府からの出国許可は降りず、台湾に渡航できたのは70年代後半でした。
晩年はボルネオでの体験記を執筆していましたが、それは残念ながら日の目を見ることは無かったです。

過去に戦争があった事だけは歴史から忘れられませんが、その体験談となると減少の一途ですね。

  • 2012/08/23(木) 19:08:29 |
  • URL |
  • maiko #-
  • [ 編集]

>maikoさん
素晴らしいお話をありがとうございました。高砂族を始めとする台湾の方々であったり、朝鮮の方々で志願、徴兵、もしくは軍属として従軍された方への戦後補償は決して充分ではないと思います。皇軍の兵士として従軍し、戦死されたこれらの方々が靖国神社に合祀されることは望まれないことかも知れませんが、少なくとも当時の「日本人」として同様の補償は受ける権利があると思います。
現在のような取り扱いとなったのは、戦後補償の問題で、こうした方々を他国の戦争被害者と捕らえればサンフランシスコ条約で規定された日本の補償の範囲内で処理されるという大原則に従ったのでしょうが、少なくとも当時は同じ日本兵として戦ったのですから、交戦国に対する補償とは分けて考えるべきだと思います。
今となっては、私達のような二世?が少しでも直接聞くことができた親の体験を残すことができればと思っています。

  • 2012/08/23(木) 22:44:18 |
  • URL |
  • 510190 #-
  • [ 編集]

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