走ってナンボ

アルファ・ロメオを始めとする「ちょっと旧いイタ車」を一生懸命維持する中での天国と地獄をご紹介します。

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知られざる親日国

日本においてトルコ共和国の情報は非常に少ないと言えるでしょう。
もちろん大多数の日本人はトルコという「国」があることを知っているとは思いますが、トルコという国に関する知識はその程度のもので、むしろ現代のトルコについての一般的な情報は皆無と言って良いと思います。
たまにトルコが日本で脚光を浴びるのは、旧くは「飛んでイスタンブール」という歌謡曲(旧いっ!)がヒットしたときや、ソープランドと改名されたものの昔呼ばれていたトルコ○呂という不名誉な風俗産業であったり、最近では屋台などで人気のケバブというファーストフード程度ではないでしょうか。

私たちがトルコについて学校で習ったのは、遠くシルクロードの時代に遡り、ヨーロッパとアジアを結ぶ交易路の要衝として栄えた・・・だの、オスマン・トルコの栄枯盛衰だのという「過去のトルコ」に関することであり、この辺りが歴史教育の問題点だと思うのですが、歴史(過去のこと)として教育が終わってしまい、その歴史から現在に至る連続性の末にある今の姿を教育しないために、他国に関する知識が日本人が当惑する、外国人の「フジヤマ、ゲイシャ、サムライ、ニンジャ」という日本を形容する言葉と同様の知識に留まってしまっているのではと思います。

私自身もこのトルコ共和国に関する知識は似たようなレベルだったのですが、その知識を少しでも増やそうと思ったきっかけがBilgin Metin氏でした。
彼は素晴らしい日本語で文章を書くことのできる方で、私のブログの読者でもあります。そしてこのブログを書き始めたばかりのときに、現在まで続けているそのアクセスアワードにご応募いただいて以来、折に触れてコメントを書き込んでいただいたり、私が病床にあった際にもご丁寧にお見舞いの言葉をいただいたりしました。

こうしたネット上での「知り合い」は直接お目にかかることが適わないために、どうしても深いお付き合いにはならないものなのですが、私自身はこのブログを通じて、お目にかかったことのない方や実名すら存じ上げない方でも、いただいたコメントやその方の書かれるブログ記事を通じて、単に「同好の志」であるからだけでなく、考え方や生き方に共感できる方々と出会うことができたと思っています。そして幸いなことにネットという環境によりその出会いは日本に留まらず、こうして世界に広がっていることは素晴らしいことだと思います。

さて、私にとって、彼によりぐっと身近になったトルコ共和国ですが、調べて見ると日本との関係は古く、シルクロードの時代を除けば明治時代に遡ります。

ErtugrulFirkateyn.jpg

それは「エルトゥールル号」遭難事件で、1890年(明治23年)、日本を親善のために訪問していたオスマン帝国(現在のトルコ共和国)の軍艦エルトゥールル号が帰国のために横浜を出航した後の9月16日22時に、和歌山県串本町沖の太平洋上で台風により座礁してしまいます。船は機関部に浸水したために蒸気爆発を起こして沈没。600名以上の乗組員の内、船長を始めとする587名が死亡または行方不明という大惨事となってしまいます。
かろうじて船を脱出した乗組員69名はやっとのことで樫野埼灯台下まで辿りつき、さらに数十メートルの断崖を這い登って難を逃れたのですが、それを救助したのが大島村(現在の串本町)の住民で、現在のように通信事情や経済事情が豊かではなかった明治時代に、台風により出漁できず食料の蓄えもわずかだったにもかかわらず、住民は浴衣などの衣類、卵やサツマイモ、それに非常用のニワトリすら供出するなど献身的に生存者たちの救護に努め、この結果、近隣の寺や学校、灯台に収容された69名が無事に救出され生還することができたのです。
この知らせは明治政府にも伝えられ、明治天皇は政府として可能な限りの援助を行うように指示し、最終的には病院に収容され回復した乗組員を日本の軍艦2隻に分乗させて無事にトルコまで送り届けることとなったのです。

一方で日本の各新聞はこのニュースを報道し、それを受けて多くの義捐金が寄せられることとなりました。現代と違って困難に満ちた航海の末に、トルコから遠く異国の日本まで来て災難で命を落としてしまったトルコの乗組員に当時の日本国民は一様に同情し、その遺族の無念さを思ってのことだったのです。
しかし一方でこうして集まった義捐金も一体どうやって届けるか・・・という問題で宙に浮きかけていたのですが、その意気を誰よりも強く持ったのが山田寅次郎という人物で、彼は一民間人でありながらこの新聞報道を見て義を感じ、遺族に送る義捐金を集めるキャンペーンを行います。そうして集めた義捐金を携えて事件の2年後に彼は自ら単身でトルコに赴き、遺族にその義捐金を渡すことができました。

山田寅次郎が民間人ながら義捐金を持ってやってきたことがトルコで知られるや、彼は熱烈な歓迎を受け、皇帝アブデュルハミト2世に拝謁することとなりました。このとき、皇帝の要請でトルコに留まることを決意した彼はイスタンブールに貿易商店(現在の「商社」)を開き、士官学校で少壮の士官に日本語や日本のことを教え、日本政府の高官のイスタンブール訪問を手引きするなど、トルコと日本の間に国交が樹立されていない中で官民の交流に尽力したのですが、彼が士官学校で教鞭をとった際にその教えを受けた生徒の中には、後にトルコ共和国の初代大統領となったムスタファ・ケマル氏もおり、彼から多くの影響を受けたと言われています。

さらにトルコの人々にとって日本を好意的に見ることになる事件が発生します。
それはまだ山田寅次郎が存命でイスタンブールに滞在中に起こった日露戦争での日本の勝利でした。
オスマン朝時代、トルコは15世紀にビザンティン(東ローマ)帝国を滅ぼしヨーロッパ深くまでその支配地域を広げたのですが、17世紀末の第2次ウィーン包囲失敗後、その領土を次々と失い弱体化して行くこととなります(カルロヴィッツ講和条約)。その後、後退する一方のトルコが最もいじめられた相手がロシアでした。トルコは長らくロシアから圧力を受け続け、同様にロシアの南下圧力にさらされる日本に対して親近感を高めていたトルコの人々は、東の小国日本の日本海海戦の大勝利による日露戦争の勝利に対して日本人と同様に熱狂し、さらに「小国と言えども確固たる信念で望めば大国怖れるに足らず」という強い教訓を得たのです。

このように日本に対して好意的であったトルコでしたが、一方で日本においては「エルトゥールル号」遭難事件も山田寅次郎のことも忘れ去られ、歴史の表舞台に登場することはありませんでした。
しかし、このトルコの日本に対する連綿と続いていた友好感情を日本人に知らしめる事件が発生します。
それは「エルトゥールル号」遭難から約100年後の1985年で、100年という年月は意図的に国民に伝え続ける努力をしなければ、忘れ去られてしまう年月だと思うのですが、日本と違ってトルコではその日本から受けた親切を国民に学校教育を通じて折に触れて伝え続けていたのです。

1980年に勃発したイラン-イラク戦争はその戦火が続いた5年後の1985年に、イラクのサダム・フセインにより宣言された無差別撃墜宣言により一挙に緊迫の頂点を迎えます。設定された48時間というタイムリミットは各国がイラン在留の自国民を脱出させるのがやっとの期間で、事実、在留していた日本邦人215名はイラン脱出の方法を失ってしまいます。
当時の日本は政府専用機を持たず、自衛隊も専守防衛の立場から長距離を飛べる輸送機を装備していませんでした。加えて日本の航空会社はイランへの定期航路を持っていなかったために、日本人は通常であれば外国の定期便で行き来していたのですが、その定期便も臨時便も、自国の国民の脱出を最優先としたために日本人が乗れる余地はなくなってしまったのです。日本政府はJALに対して臨時便を出すように要請したのですが、JAL側は乗員の安全が確保できないとこれを拒否し、こうしたときに頼みのアメリカもその立場から最も標的にされやすいために、米軍が用意した輸送機も自国民の脱出に必要な最低限となってしまい、イラン在住の日本人はあわや棄民される寸前でした。

そして最後の手段として思いつかれたのが最も近隣の親日国であったトルコで、これまた随分都合の良い考えだったとは思いますが、当時の日本に他に策がなかったのも事実で、まさに「藁をもつかむ思い」だったのでしょう。正式な外交チャンネルとしては野村豊イラン駐在大使がトルコのビルレル駐在大使に救出を依頼したとされていますが、実はトルコを動かした真のチャンネルはこの正式ルートではなく、かつての山田寅次郎と同様の民間ルートであったと言われています。

それは伊藤忠商事のトルコ・イスタンブール事務所長・森永堯(たかし)氏のチャンネルで、彼は当時のトルコ共和国首相であったトゥルグト・オザル首相と親密な関係にありました。
そのきっかけはオザル首相がまだ民間人であった時代にまで遡ります。
当時のトルコは農業が最大の産業であったのため、日本から技術を導入して農業用トラクターの製造を行おうとしていまいた。しかし、当時のトルコは国自体が経済破綻の危機に瀕しており、そんな国に資本を投下しようとする日本企業は皆無でした。そこで森永氏がオザル氏が勤務していた企業に協力して何とか工面した外貨でトラクターの部品を日本から輸入し、細々と組み立てるという事業をおこしたのです。
日本外交にとって長らく最大の武器であったのがこのような商社の持つ人脈であり、政府外交がどうしてもその正式な外交・政治のチャンネルに偏りがちになってしまうのに対して、商社のビジネス絡みの持つチャンネルに、日本人の持つ「浪花節」的な義理人情が加わった独特の人脈は、こうした窮地に陥った場合には特に有効に機能するのではと思います。

かくして、トルコ政府は日本人を救出するためにトルコ航空の旅客機をテヘランに飛ばすことを決断します。もちろんその決定のきっかけは日本政府からの正式要請があったからでも、森永氏とオザル首相の個人的な人間関係があったからだけでもなく、遠く明治時代に受けた日本人からの親切を忘れず、トルコが国民に伝え続けたことによるものに他なりません。
しかも、当時のトルコ航空の乗員は、JALがそうしたのと同様にこのフライトが危険任務であるために拒否権があるにも関わらず、その権利を誰一人として行使せずに、「通常のフライトと同様に」食事や酒といったサービス品を積み込んでテヘランに向かいました。そして無差別撃墜宣言のタイムリミットから残すところ1時間前という、当にギリギリで2機のトルコ航空機が混乱するテヘラン空港を相次いで離陸し、現地脱出を希望する日本邦人全員を脱出させることに成功したのです。

このハナシにはさらに余談があります。当時のイランには600人ものトルコ人が残されていました。そしてそれらのトルコ人の多くはこの脱出便に乗れず、500名ものトルコ人は最速でクルマを走らせても3日はかかる危険な陸路でイランを脱出して帰国せざるを得なかったのです。
自国民の脱出を最優先するのが国際常識であり、日本が逆の立場であれば間違いなくそうしたであろう状況の中で、トルコは、忘れられても誰も文句を言わないであろう100年も前の恩義を忘れずに、政府だけでなく国民も皆、日本人脱出に助力してくれたのです。それは後に、このことが公になってもトルコ国内で問題とならなかったことからも明らかで、トルコ国民もこの政府の決断を支持してくれたのです。

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この辺りの詳細なストーリーは森永堯氏の書かれた「トルコ 世界一の親日国 危機一髪!イラン在留日本人を救出したトルコ航空」に詳しく書かれていますので、興味を持たれた方は是非ご一読いただければと思います。

2006年1月に当時の小泉首相はトルコ公式訪問の事前説明で、トルコ航空によるテヘラン在留邦人救出事件の話を聞いて感激し、実際にその感謝の意を顕すためにトルコ航空の元総裁、元パイロット、元乗務員たち11名に日本政府から叙勲を行いました。通常、日本政府が外国人に対して行う叙勲は年間で20名程度なのだそうですが、この年はそれに加えて、トルコ航空関係者11名の大量叙勲を行ったのです。また、オザル首相はすでに亡くなっていたので、未亡人に小泉首相から感謝状が贈られました。
感激屋の小泉首相らしいエピソードではあるのですが、この叙勲に異論のある日本人は誰一人いないでしょう。

そんなトルコの現代の事情を彼が「日本語」でブログで教えてくれることとなりました。しかも私たちのようなクルマ好きにとって更に興味深いトルコのクルマ事情についての記事ですので、期待して愛読させていただこうと思っています。
こう書くと彼にはプレッシャーになってしまうかも知れませんが(笑)、どうか気負わずにご自身のペースで気長に書いていただければと思います。

「トルコドライブ記」と題された彼のブログの今後の展開に期待しています。

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コメント

ご紹介、ありがとうございます。
ブログに書こうと思ったことのほとんどがすばらしい文章で解説されています(笑)
冗談はさておき、投稿がんばっていきたいです。

どちらかというとですが、「行った親切」より「受けた親切」の方が強く記憶に残るのではないでしょうか?
もちろん国民性による違いはあると思います。
ただそういう出来事も正しく目にする機会が減っているとは感じます。
歴史教育も、マスコミ報道も問題ありかと。
この記事の事件もネット民なら知ってる人多いんじゃないですかね?

  • 2012/03/28(水) 07:47:24 |
  • URL |
  • S氏 #-
  • [ 編集]

>Bilginさん
「知りたい」と思うことが書いてあるブログも大切ですが、「へぇ~」という新しい発見がある情報を発信することも素敵なことだと思います。トルコに関する認知度を日本でUPするために?是非頑張ってください。

  • 2012/03/28(水) 09:34:47 |
  • URL |
  • 510190 #-
  • [ 編集]

>Sさん
物事には二面性があることを歴史に限らず教育でちゃんと教えることが重要だと思います。どうしても試験のためには答えが一つでなければならない・・・と考えるのでしょうが、歴史は年号を覚える科目ではなく、人間が他者とどう関わり、どんな影響を受け、また与えてきたかの履歴ですからね。

  • 2012/03/28(水) 09:38:02 |
  • URL |
  • 510190 #-
  • [ 編集]

忘れかけられたエピソード

素晴らしいお話を読ませて頂きました。
今の日本人が、もう一度考え直すべき問題が沢山みられました。
昔の商社マンの心意気を引き継ぎたいです。

  • 2012/03/28(水) 15:06:10 |
  • URL |
  • 司法代 #/.be8cEk
  • [ 編集]

>司法代さん
ありがとうございます。すでにご存知の方にとっては別に・・・というハナシだと思いますが、ご存じなかった方には是非知っておいていただきたいと思ったので記事にさせていただきました。
世界にはこんな風に日本のことを思ってくれる国があることを日本人はもっと知るべきだと思います。

  • 2012/03/28(水) 21:46:15 |
  • URL |
  • 510190 #-
  • [ 編集]

いい話ですね!

僕はトルコが好きで、新婚旅行もトルコでした。
なのに、、、このお話は知りませんでした。(恥

イラン・イラク戦争後の1985年ですが、4ヶ月ほどパキスタンにおりましたが、パキスタンに限らずイランの人もトルコの人もみんな親日家でした。

  • 2012/03/29(木) 00:33:37 |
  • URL |
  • てい #AVChMHfA
  • [ 編集]

>ていさん
そうなんですか・・・ていさんがトルコ好きとはちょっと意外ですね(笑)。
ブータン、トルコと記事にしましたので、親日国シリーズとして記事を書くのも面白いかも知れませんね・・・。あっ、クルマのブログだった(汗)

  • 2012/03/29(木) 10:38:31 |
  • URL |
  • 510190 #-
  • [ 編集]

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