走ってナンボ

アルファ・ロメオを始めとする「ちょっと旧いイタ車」を一生懸命維持する中での天国と地獄をご紹介します。

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600,000 Access Awardの製作

先日、皆さんにご応募いただいたAccess Awardの行き先が全て決まりましたので、早速製作に取り掛かりたいと思います。

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例によってまずはディスプレイベースの製作からです。
定番となったアガチス材を使用したディスプレイベースですが、昔のものに比べて最近のアガチス材は少し材質が変ったのか、木目の「詰まり」が緩くなったような気がします。確かにアガチスは熱帯の樹木ですので、針葉樹であるチーク材などに比べると柔らかいのは確かなのですが、それにしても実際にニスを塗っていると染み込むのが早く、あまり艶が出ませんでした。

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今回はニスを二回、クリヤーウレタンを三回で仕上げましたが、以前のアガチス材であればこれだけ塗ると表面の艶がもっと出たように思います。これも何か環境変化の影響なのでしょうか・・・。

続いてミニチュアモデルのディテールアップに移ります。

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まずはAston Martin DBR9からです。このミニチュアモデルに関しては過去の記事でご紹介していますので、詳しくはそちらをご覧いただければと思います。
このモデルは京商の一連のモデルの中でも、その出来栄えはトップクラスだと思うのですが、そのお陰で殆ど手を入れる箇所がありません(泣)。唯一といって良い箇所がサイドミラーのガラス面でしたので、クロームシルバーで塗装して出来上がりです。

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次はFERRARI 330P4です。

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このクルマに関しても殆ど説明の必要はないと思うのですが、一連のFERRARIのコンペティションカーであるPシリーズの中でも最も美しいと言われたクルマです。1967年のデイトナ24時間レースで、P4が1位、2位に入り3位に412Pが入ったことにより、上位3位を全てFERRARIが独占するという完全勝利を成し遂げたことで有名になりました。

このミニチュアモデルは一部組み立て式になっています。ポイントはエクゾーストパイプでちゃんとあらかじめ白に塗装されています。いつものとおり0.2mm径のピンバイスで穴を開け、その後にデザインナイフの刃先で穴を大きくしてやります。

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ホイールはセンタースピンナーもちゃんとシルバーに塗装されており、このスケールでは充分なディテールなのですが、少しモールドが甘いようですのでスミ入れをして奥行きを強調することにしました。

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三台目はMASERATI Ghibliです。1966年に発表されたこの初代Ghibliは当時、カロッツェリア・ギアのチーフデザイナーであった巨匠ジウジアーロのデザインで、鋼管フレームにスチールボディという構造で、ロングノーズ、ショートデッキという定番のスタイルにリトラクタブルヘッドライトという流行も取り入れて、MASERATIの代表作となったGTでした。事実、スパイダーとあわせて1,200台以上が生産され、これは当時のMASERATIの規模からすると大量生産と言って良い生産台数でした。
このミニチュアモデルはそのGhibliの伸びやかなスタイリングを良く表現していると思います。これもマフラーエンドを開孔し、ホイールにスミ入れを施しました。

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四台目はFERRARI 512BBです。

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1976年に発表された512BBは前身の365BBと共に、LAMBORGHINI Countachと公道最高速を競い合ったFERRARIのフラッグシップモデルです。最高速度は公称302km/hでしたが、その速度は現実的ではありませんでした。
このミニチュアモデルは少し車高が低すぎるかなと思いますが、このスケールではさほど気にはなりません。
エクゾーストはちゃんと開孔されていますので、サイドミラーのガラス面をクロームシルバーで塗り、ホイールにスミ入れを行いました。

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そして五台目は同じくFERRARI 288GTOです。

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個人的にはBest of FERRAI Roadgoing Modelだと思っているのですが、それは308系のピニンファリーナのデザインが好きだからなのでしょう。
どうもこの一連の組み立て式のFERRARIモデルのシリーズはデフォルメが過ぎているようで、全体のバランスを少し崩しているように思われるのですが、この288GTOはその中でもマシな方で、288GTOのグラマラスなフェンダーラインをうまく表現していると思います。このモデルにもマフラーの開孔とホイールのスミ入れを施しました。

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最後はMASERATI MC12です。

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2004年にFIA-GT選手権用のマシンとして開発されたものですので、すでに8年オチなのですね。月日の経つのは早いものです(苦笑)。これはロードゴーイングバージョンですが、さすがにMASERATIらしく内装は豪華でしたが、マシンそのものはFERRARI Enzoをベースとしており、コンペティション用と殆ど変らず、カーボンとアルミで造られたボディに630psの6L V12エンジンを搭載しており、公道で乗れたシロモノではありませんでした。事実、日本では保安基準に適合しないために公道での走行はできず、一台一億円!と言われたMC12もサーキットでしか走らせることができませんでした。

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このモデルはMC12の特徴を実に良く捉えており、特にそのパールホワイトの塗装が絶妙です。殆ど手を加えるところがないのですが、例によってサイドミラーをクロームシルバーで塗り、ホイールにスミ入れをして仕上げました。

このシリーズはどうしてもオトナ買いをしてしまい、普段は箱のまま段ボールに入れて保管しているのですが、こうして一台一台とじっくりと向き合うとそれぞれが実に味のあるミニチュアモデルだと思います。このクオリティのモデルがブラインドボックスながらコンビニで500円程度で買えるのですから、恐ろしい世の中です(笑)。

完成品は順次発送させていただきます。ご応募いただいた皆さんは楽しみにお待ちください。

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テーマ:ミニカー - ジャンル:車・バイク

国民の民度

最近になって日本の領土に関する周辺国との問題が噴出しています。現在の日本にある領土問題は、中国との間の尖閣諸島、韓国との間の竹島、そしてロシアとの間の北方領土なのはご存知の通りですが、これらは領土問題と一口で括ることはできず、その起源と原因は個々に異なっています。

残念なことに日本は国境問題にはあまりにリアリズムを持たずに過ごして来ました。それは島国で四方を海に囲まれて来たからだと思うのですが、一方の大陸にある国家にとって国境警備は日常の問題で、領土というものは常に隣国からの侵略の脅威に晒されており、過去の経験から守らない領土は手放したも同然という文化を持っています。
一方で私たちは小さい頃から「人のものを欲しがるのは恥ずかしいこと」と教わって来ました。確かに太平洋戦争は侵略戦争という意味合いがあったと思いますが、それでも大義としては人のものを欲しがったのではなく、大東亜共栄圏という大義名分を持ち、実際に戦った兵士はアジアを欧米から解放するという崇高な目的をもって戦場に出征したのです。
しかし、世界には「人のものでも手に入るのであれば手に入れないのは馬鹿」と考える国が多いのが事実で、その現実を踏まえて私達は国際社会の中で行動しなければなりません。

私が登録しているフェイスブックというSNSは実名での登録であることからこれらのニュースとその反応は冷静かつ論理的なものが多く、多くの証拠資料が記事として書かれています。

竹島の領有問題が発生したのは太平洋戦争の日本の敗戦時に遡ります。言い換えればそれまでは竹島が日本の領土であることを韓国(朝鮮)も全く問題視していなかったのです。竹島問題のこれまでの経緯が良く分からないという方のためにこのフェイスブックに実に分かりやすく説明したものが載っていましたので転載させていただきます。

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このように竹島の領有権争いは日本の敗戦により韓国にによって「思いつかれて」スタートした問題なのですが、一方の韓国は永年の教育により国民の殆どがそのこじつけによる論理を信じてしまっています。
しかし、韓国の政治家や歴史家は竹島が歴史的な領土争いではなく、戦後の日韓両国の力関係から自分達が「仕掛けた」争いであることを知っていると思います。だからこそ、頑なに日本が提案している国際司法裁判所への提訴を受け付けないので、実際に裁判で判決が出ると、これまでの竹島の実効支配が無に帰してしまう可能性を良く知っているからだと思います。

ここで他山の石として考えるべきは、最近よく言葉として出てくる「国益」という問題です。韓国にとって近視眼的な国益は竹島の実効支配だと思いますが、この「実効支配」とはそもそも領土問題が解決していない状態であり、その論理と行動に無理があるとすれば長期的に見れば国際社会でその国家の見識と行動が疑われることになり、結果として著しく国益を損なうことになってしまいます。
私は竹島の問題はこの官民の理解が異なるという二重構造にあると思っています。韓国の国民はその間違ったストーリーを教育されて来たために、純粋に竹島は韓国の領土だと思っています。以前の日韓関係であればそれでも良かったかも知れませんが、現在のように文化交流が盛んになり、インターネットを通じて多様な情報が入手でき、多くの韓国人が日本を訪れる現在では、早晩、韓国国民が自分達の論理には無理があるのでは・・・と思うでしょう。そしてその間違った論理で竹島領有を主張し続けてきた歴代の韓国政府に対して不信感を持つのではないかと思います。
韓国政府は日本の国際司法裁判所への提訴を「一顧だにしない」という姿勢をとり続けていますが、竹島が自国の領土であると信じ切っている韓国国民の中には、なぜ国際司法裁判所で白黒つけないのか?と訝る世論も出てきているのです。

これまでの日韓両国はこの問題に「目を瞑り」、「先送りし」、ある意味「放置」して来ました。それは日韓両国が連携して発展していくために必要だったのかも知れませんが、両国の将来のためには目を瞑ったままで良いはずはないでしょう。

私は日本国内だけでなく、韓国の国民に日本の立場と論理を理解してもらった上で、自国の主張がそれでも正当かどうかを判断してもらうべきだと思います。
日本の立場とは竹島が日本の領土であるということですから、韓国大統領を始めとする政治家から今回泳いで竹島に渡った芸能人や観光で訪れた一般人に至るまで、竹島に上陸した韓国人全てを日本への不法入国者として取り扱うべきだと思います。従って日本国に不法入国歴(犯罪歴)がある韓国人は断固として今後は入国拒否すべきです。
また、今回竹島に上陸した芸能人に関しては、その出演作品も日本では上映禁止とするべきだと思います。日本の芸能人がそれが例え軽犯罪であったとしも、TV番組が放映中止となったり芸能活動を一定期間自粛させられているのですから、同様の措置を韓国の芸能人に対して行うことはむしろ両国の芸能人にとってフェアな取り扱いだと言えるでしょう。
入国管理官が全ての韓国からの一般人の入国希望者に竹島への渡航歴を確認すれば、それでも入国しようとする韓国人はウソをつかなければ入国できないことになります。
こうすることにより韓国国民も竹島問題を韓国のマスコミにより報道されている問題ではなく、より身近な自分の問題として理解でき、反対に韓国政府に対して「早く白黒つけてくれ」という世論を喚起することができると思っています。
通貨スワップなどの互恵条約を見直すことも必要ですが、今一番重要なのは韓国国内で国際司法裁判所への提訴を受けるように世論を高めることではないかと思います。

一方で中国との尖閣諸島問題はある意味もっと単純だと言えます。それは中国のご都合主義による主張で、韓国と異なり中国国内の様々な資料から、尖閣諸島の領有が突然に主張され始めたことが分かります。

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これは週間ポストに掲載されていた1960年に中国国内で発行された地図ですが、中国は歴史的事実により尖閣諸島の領有権を主張し続けてきたのではなく、日本の領土であることを前提として、それでも欲しがっていることが分かります。
そして韓国よりも単純なのは中国国民の感情で、一部の知識階層は別にして、多面的に物事を検証するという行動経験のない国民にとって、反日デモは「反日本」ではなく「反日常」であり、広がる貧富の格差や中国共産党の独裁政権の矛盾に対する欲求不満の捌け口になっていることです。
中国政府はこれまでもこうして反日感情を利用してガス抜きを行ってきました。日本にとっては良い迷惑であったのですが、これからも反日で国民の目をそらし続けるには限界が来るでしょう。

日本は尖閣諸島をいたずらに実効支配などしようとせずに、「粛々と」不法入国者に対処し続けるのが良いと思います。もし、中国が南沙諸島のように国家として実効支配しようとするならば、領土侵犯として断固たる処置を取る必要があると思いますが、それが表面的であれ一部の民間人の過激な行動であれば、成熟したオトナの国家はあくまで国内法により不法入国者としてこれらに対処するべきだと思います。

そして、竹島や尖閣と大きく異なるのが北方領土です。日本人は敗戦により戦争が終わったという理解をしており、国土が焦土となり、多くの民間人が犠牲になったことで自分達の敗戦処理が終わったと思っています。
しかし、戦勝国にとっては兵士を始めとする自国民の流した血の対価が何であるかを明確にすることは当然のことで、これまでの戦争では負けた国は膨大な賠償金を支払ったり、自国の領土を手放すことにより敗戦処理を行ってきたのです。
実際に日露戦争で勝利した日本はシベリア半島を領土としましたし、それを太平洋戦争の敗戦により手放しました。歴史の常識として戦勝国が戦利品を得るのは当たり前のことであり、ロシアの対日参戦がいかに火事場泥棒的なものであり、北方四島が敗戦後に不法に占領されたものであるとしても、ロシアにとって北方四島は戦利品であり、それを返還することは戦死したロシアの兵士に対する冒涜であると考えるのは無理からぬことだと思います。
そうであるならば、単に返してくれ・・・と言い続けてもそれが実現しないのは当たり前で、ロシアにとって北方四島を手放すための合理的なストーリーを提示しなければ交渉にはならないと思います。

敗戦によりアメリカの領土となった沖縄が日本に返還されたのは、両国にとってそのストーリーが合理的であったからで、その前提としての日米安保であり、沖縄の米軍基地であることを考えると、この北方領土の返還は日ロの相互利益となるようなストーリーをいかに描くかにかかっていることは明白です。そしてそれを提示する責任は日本側にあると思います。

私はこれらの領土問題は日本にとっての国難ではなく、むしろ国際社会に日本人の民度を示すチャンスだと思っています。
世界において日本がかつて経験してきたことの特殊性は群を抜いています。
アメリカ人の友人と真剣に話したことがあるのですが、彼は生粋のアメリカ人で、その先祖はメイフラワー号に乗り、イギリスから初めてアメリカ大陸に上陸したという家系です。またコロンビア大学を卒業し、シカゴ大学のMBAを取得した素晴らしい学歴と見識を持っているのですが、彼は太平洋戦争についても実に面白い見識を話してくれました。その話は別の機会にしたいと思いますが、彼によるとこれからの国際社会の秩序をリードするのは、自国の国益をベースにした経済力と軍事力がある大国ではなく、小国であっても民度が高く、リベラルな見識を持つ少数の国家グループによるべきだと考えており、その国家として一番適しているのが日本だと考えているのです。
彼によると日本ほど国際社会にリベラルに発言できる国家はないそうで、日本は・・・、

・特定の宗教を持たない(宗教対立に中立でいることができる)
・有色人種の国家で初めて白人と対等に戦った経験がある(白人にとって初めて真剣に戦った非白人の国家である)
・天然資源がないにも関わらず焦土から復興し、これだけの経済成長を成し遂げた(発展途上国に成長モデルを提示できる)
・人類で唯一の被爆国であり核武装をしていない(核軍縮に対して仲裁的な発言力がある)
・地震を始めとする殆どの自然災害を経験している(自然災害について洞察力があり復興経験がある)
・領土的な野心がなく紛争に介入しても合理的な解決策を提示できる(自国の国益をベースにしない)
・一部の政治家だけでなく国民全体の民度が高く、国際貢献ができる潜在要員が豊富である

などの他国にはない優れた点があるそうです。これらが全てその通りかというと日本人としては面映い部分があることは確かですが、事実としてこれらの独自性があるのはその通りで、私達はこれからこれらの独自性をどのように生かして行くかを考える必要があると思います。

日本は現在の領土問題を世界に発信すると共に、これまで様々な国家間で争われてきた領土問題と異なった解決方法を国際社会に示すチャンスだと思います。それは「粛々とした」「法治国家として」の対処で、エモーショナルなナショナリズムではなく、民度の高い国家として世界から紛争解決のお手本と言われる解決をすることだと思います。

日本国民の民度の高さは国際的に認知されています。
東日本大震災において災害救援物資をヘリコプターで届けたアメリカ海兵隊員が述懐していたのですが、ある避難場所に降下して物資を下ろしていたら被災した人から、「私達はもう充分なので、他の避難場所に届けて欲しい」と言われ驚いたそうです。このパイロットは他の国でも災害救援を経験しており、これまでは物資を届けると奪い合いが起こるのは当たり前だったそうです。
過去の記事でも書きましたが、災害時に自衛隊(軍隊)が治安維持のために出動する必要がなく、武装せずに丸腰で救援活動に専念できる国は日本くらいのものでしょう。
一部の不心得者がいたのも事実ですが、津波で流された金庫の多くがそのまま届けられる国も日本くらいのもので、そのニュースは驚きと尊敬の念を持って世界中に配信されました。
そして中国でさえも、動かない電車を駅で待つ人々が通る人のために階段の真ん中を空けて座っている様子を、「見習うべきもの」として報道しています。

そして私が最近とても気に入っている写真がフェイスブックで配信されたこの写真です。

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これは大飯原発の再稼動に反対するデモ隊と警備する機動隊とを写した写真です。この写真も世界に配信されているのですが、大降りの雨にデモ隊の女性が機動隊隊員に傘を差しかけている様子です。
この写真は日本の「一般人の」デモ参加者が抗議すべき相手が何であるかをちゃんと理解して行動していることを示しています。
首相官邸前で原発再稼動に反対しているデモ参加者も、警備している警察官に「ご苦労様です。ありがとう」と言って解散しているそうです。
反政府デモが内戦に発展したり、暴徒と化したデモ隊が建物を破壊したり略奪を行ったりすることが当たり前の世界に対して、日本人のデモの様子を写したこの一枚の写真が与えるインパクトがどれほどのものであるかを想像して見てください。私達はこの民度の高さを誇りに思うべきです。

残念ながら紛争を解決する手段として武力を行使することは世界では当たり前のことなのかも知れません。
しかし、私達は世界から、「あのときの日本のような解決をすべき」と言われるような解決を行うことが、これからの日本の真の国益になるのではと思います。

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テーマ:領土・領海・・経済水域 - ジャンル:政治・経済

祝600,000アクセス達成

600,000Access

皆さんのご声援により600,000アクセスを達成することができました。
2006年11月12日にこのFC2にブログを移転し、過去記事を含めて新たに書き始めてからすでに足掛け6年となりますが、元来飽きっぽい私がここまで書き続けてこられたのは、やはり読んで下さる皆さんがいらっしゃったからで、コメントをお寄せいただいたり拍手をしていただいた方だけでなく、毎日のアクセスカウンターの数字で、皆さんと繋がっていることを実感できたからだと思っています。

600,000

途中の1年間のブランクを含めて、今日まで延べで2,473日間ブログを公開して来ましたので、平均すると1日243名もの方にご覧いただいたこととなります。また書いてきた記事もこの記事で971本となりました。
よくもこれほどまで書くことがあったものだと、我ながら感慨深いものがありますが、一方でこんなヲタクなブログに飽きもせずにお付き合い下さった皆さんのご支持があったからで、それがなければこうして続けることはできなかったでしょう。

このブログを書いていた6年間は私個人にとっても波乱万丈の年月で、実際の生活ではブログを書いているような状況ではなかった時期もありました。それでもこうして書き続けて来たのは皆さんが楽しみに待っていてくださるということに加えて、自分自身がそうした実生活の様々な心配事を離れてリフレッシュをしたかったからではなかったかと思います。ですので、この記事には私自身の日常の生活に関する記事を殆ど書くことはありませんでした。
通常のブログではそうした日々の出来事や悩みなども書くのが自然なことなのかも知れませんが、私自身はそうしたことを書くことよりも、むしろテーマを決めてそれに沿った記事を書くことの方が楽しく、自分自身にとってその作業が「癒し」の時間となっていたと思います。

これからも日常生活とは無関係な記事を書き続けると思いますが、クルマに関することだけでなく、もっと幅広く様々なテーマを加えて行こうと思っていますので、引き続きお付き合いをいただければと思います。

さて、恒例のアクセス記念品ですが、以前の記事でお知らせしたように、この記事をご覧になった方でアクセス記念品をご希望の方はこの記事のコメント欄でお知らせいただければと思います。

繰り返しになりますが、心ばかりの感謝の印ですのでどうか遠慮なさらずエントリーいただきますようお願いいたします。

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テーマ:ひとりごと - ジャンル:車・バイク

墜落機の修復 1

プラモデルを製作する記事をブログで書いていると久しぶりに友人からメールが来ました。
それも「お元気ですか~」とか「最近どう?」といった久しぶりの挨拶抜きに、いきなり、「プラモ上手いですね」というブログの感想で、これは何かあるな・・・と返信をして見ると、案の定、「お願いがあるんですが・・・」と頼まれてしまったのが、引越しの際に落として壊してしまったモデルの修復でした。

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この友人はフェラーリのミニチュアモデルコレクターで未だ作成中ながらそのコレクションを披露するためのHPまで開設しているのですが、多くのコレクターと同様に自身でモデルを造ることはありません。
実は彼のような多くのコレクターは自身でモデルを造ることはなく、もっぱら完成品のミニチュアモデルを収集することを趣味としています。以前は完成品モデルの完成度に満足できなかったコレクターがホワイトメタル製やレジン製の組み立てキットを製作するようになった例は多かったのですが、近年の完成品モデルはその仕上がりが素晴らしく、かつてのハンドメイドモデルのレベル以上の出来栄えですので、美しい塗装と精密な出来栄えを求めてわざわざ自分で造る必要は一気になくなってしまいました。
現在こうして自分自身で組み上げているモデラーはその出来栄えがどうこうではなく、自ら手を動かすことが好きな方や、どうしても市販モデルには飽き足らない方のみとなってしまい、1/43スケールの組み立てモデルは一時に比べると減ってしまったのが現状ではないかと思います。

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さて、この彼が持ち込んできたのはフェラーリのモデルではなく、第一次大戦時の複葉戦闘機 Nieuport(ニューポール) 17でした。しかし、フェラーリコレクターの彼がフェラーリとは何の関係もない飛行機モデルを持っているはずはなく、このモデルはフェラーリのエンブレムである跳ね馬(Cavallino Rampante)の起源と言われる紋章が描かれたFrancesco Baracca(フランチェスコ・バラッカ)中佐の愛機なのです。

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Francesco Baracca中佐は第一次大戦におけるイタリア空軍の撃墜王でイタリアの国民的英雄です。
彼はもともとは騎兵隊に所属していたのですが、航空機に興味を持ち、フランスで飛行訓練を受けた後にイタリア空軍に転属します。
第一次世界大戦にイタリアが連合国の一員として参戦することとなり、当初は偵察任務についていたのですが、その後に戦闘機に搭乗し、彼の才能は開花します。1916年4月に遭遇したオーストリア=ハンガリー軍のハンザ・ブランデンブルク偵察機を攻撃し不時着させた後、その年にさらに4機を撃墜した彼は、国際的な基準であるエースと呼ばれる5機撃墜を果たします。そしてそれを機に彼の機体にはこの「跳ね馬」がパーソナルマークとして描かれることとなったのです。
当時はまだ優雅な時代で、エースパイロットになると機体にはパイロットの家紋や自身のラッキーマークなど様々な塗装を独自に施すことができたのですが、その代表的な例がレッド・バロンと呼ばれたドイツ空軍の撃墜王であるリヒトホーフェン男爵で、彼の機体は赤に塗られていたために、味方のみならず敵からもすぐに見分けることができ、その目立つ機体からレッド・バロンと呼ばれる所以となっていました。

イタリアのトップエースであったバラッカ中佐のパーソナルマークであるこの跳ね馬の起源には諸説があります。その中の一つとして撃墜したドイツ空軍のパイロットが付けていたシュトゥットガルト市の市章をモチーフにしたとする説があるのですが、どうやら実際にはバラッカ中佐が騎兵将校時代に所属していたイタリア陸軍第11山岳騎兵連隊の紋章を自身の出自として描いたという説が有力とされています。

1917年5月にバラッカ中佐は新たに編成された戦闘機部隊第91中隊(第91スクァドリリア)の指揮官に任命されます。この部隊はバラッカ中佐のほかにイタリア空軍のエースが集まる「エース中隊」で、部隊全体としても突出した戦果を上げたのですが、バラッカ中佐自身もこの部隊で撃墜を重ね最終的には34機を撃墜し、第一次世界大戦におけるイタリア軍パイロットの中でトップとなります。

しかし、1918年6月19日、機銃掃射による対地攻撃を行っていたバラッカ中佐はオーストリア陸軍の対空砲火を浴びてしまいます。致命的な損害を受けたバラッカ機はモンテロ山付近に墜落し、機体と共にバラッカ中佐の戦死が確認されるのですが、バラッカ中佐は拳銃を握って絶命しており、どうやら墜落時には生存していたものの、機体から脱出できなかったために焼死を避けて自決したものと思われています。

バラッカ中佐はこのNieuport 17以外にも多くの機種に搭乗しており、当初は複座のNieuport 10に搭乗した後、戦闘機であるNieuport 11、そしてこの17を経て、彼の最後の愛機はSpad Ⅶ型でした。
実はこれらの飛行機はすべてフランスのもので、意外に知られていませんが、かつてフランスは航空先進国でした。フランス航空史については別に機会があればご説明したいと思いますが、第一次大戦において連合軍を勝利に導いた航空機の多くはフランス製で、事実、性能的にも当時の敵国であったドイツ製の航空機と互角以上の戦いをしていたのがこのNieuportやSpadといったフランスの航空機でした。イタリア空軍の英雄のバラッカ中佐の功績も彼の愛機であったフランス製の戦闘機の性能に支えられていたと言っても良いでしょう。

それでは何故、このバラッカ中佐のパーソナルマークがフェラーリのエンブレムとして用いられるようになったのかと言うと、これまた諸説が入り乱れています。
フェラーリ側の公式な説明によると、1923年6月にラベンナ市の郊外で開催された"第1回チルクィット・デル・サビオ"をたまたま観戦していたバラッカ中佐の母であるパオリナ・バラッカ伯爵夫人が、ドライバーとして初優勝したスクーデリア・フェラーリ(SCUDERIA FERRARI)の創始者であるエンツィオ・フェラーリのドライビングに感激して、亡き息子の機体のエンブレムであったこの「跳ね馬」マークをエンツィオ・フェラーリに贈ったというものなのですが、これはかなり脚色されたもののようで、現実的にはバラッカ家の家紋でも何でもないこのエンブレムを個人の判断で譲渡することはできなかっただろうと思われます。

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有力な説は、エンツィオの実兄であるアルフレード・フェラーリがバラッカ中佐の指揮する第91中隊に所属していたことに由来するというものです。事実、この跳ね馬のエンブレムは部隊の記章として引き継がれており、現在のイタリア空軍の第9戦闘航空団を始めとする複数の部隊がこの跳ね馬のエンブレムを部隊記章としているのはやはりエース部隊であった第91中隊にあやかろうとするものなのでしょう。

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その経緯はともかくとして、イタリアを代表するスポーツカーメーカーとなったフェラーリが使用するこの跳ね馬のエンブレムを、今さら「勝手に使うな」などという無粋なことをイタリア空軍が言うはずもなく、現在ではむしろ円満にお互いが仲良く使用しているようで、事実、フィオラノのテストコース前にはフェラーリのエンブレムが描かれた真紅のF-104が展示されています。

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さて、問題の墜落した機体の修復ですが、幸いなことに欠品もなさそうですので、修復そのものはそれほど困難ではなさそうです。
しかし、修復してはい終わりでは面白くありませんので、何とも味気ないディスプレイ台を新しくジオラマ風のものに製作しなおして見たいと思います。

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テーマ:模型・プラモデル - ジャンル:趣味・実用

遠すぎた橋 ~A Bridge Too Far~

A Bridge Too Far

これまでの記事で、戦争においていかに兵站が重要であるかをご説明してきました。そして「世界一贅沢な軍隊」と呼ばれた米軍が、いかにこの補給を重要視していたかをご紹介したのですが、今回はこの米軍(連合軍)が、その補給路を確保するためにその補給を軽視して行った作戦についてご紹介したいと思います。
その作戦とはノルマンディ上陸作戦の後に、ヨーロッパ大陸で実行された「マーケット・ガーデン作戦」と呼ばれる空挺部隊と陸上部隊のコンビネーションによる複雑な大規模作戦で、その作戦を描いた映画が今回ご紹介する「遠すぎた橋(A Bridge Too Far)」です。

1944年6月6日、ナチスドイツによって占領されていたヨーロッパ大陸に対して行われたオーバーロード作戦と呼ばれる大規模な反抗計画がノルマンディ上陸作戦でした。300万人近い兵員をドーバー海峡を渡ってフランスのノルマンデイに上陸させ、そこから占領下のフランスを解放し、ドイツ本国に進撃して行くというのがこのオーバーロード作戦の目的だったのですが、当時のドイツは対ソ戦のバルバロッサ作戦と呼ばれる侵攻作戦で多くの兵力をロシア戦線に振り向けており、米・英・カナダの連合軍の反抗作戦はまだ先だと思われていたのです。
日本人の感覚からするとせいぜい瀬戸内海を渡って四国に侵攻する程度の距離でしかないドーバー海峡を、これだけの大部隊が気づかれずに渡るのは至難の技であったのですが、絶妙な天候の時期と様々な陽動作戦、そして徹底した緘口令により、最後までドイツ軍は何らかの上陸作戦が計画されていることを察知していながら、その上陸地点を特定できずにいたために、ノルマンディの海岸に連合軍の上陸を許してしまいます。

そしていよいよ大陸での連合軍の反撃作戦が始まったのですが、ここで問題となったのが兵站補給ルートでした。フランスの港湾を確保した連合軍はその補給物資を陸揚げすることはできたのですが、そこからヨーロッパの深部へ進撃する部隊への補給ルートは延びる一方で、上陸後の3ヶ月で600kmにまで達していました。しかもドイツ軍の占領地域を「面」で制圧しようとすると時間がかかり、「線」で制圧し機甲部隊を進撃させると、側面からの反撃に逢い、補給路と退路を絶たれる恐れがあったのです。
そのリスクを考えると進撃のスピードは遅くなるのですが、確かに周囲の都市を開放しながらの進撃は政治的にも必要な作戦であることに対して、ドイツ軍の組織的な反撃を早期にアキラメさせるには、一刻も早くドイツ国境までイッキに進撃し、フランスに残ったドイツ軍の退路を断つことにより、占領国に駐留していたドイツ軍を個々に分断し、その後にじっくりと面での占領開放を進めれば良いと考える米軍と、長引く戦争をなるべく早期に終結させたいと考える英軍との間に勃発した補給物資の奪い合いから立案されたのがこのマーケット・ガーデン作戦だったのです。

MG作戦図1

当時の米軍の最前線での作戦指揮を取っていたのが米陸軍第三軍を率いるパットン将軍で、連合軍司令部の持つ上記のジレンマなどどこ吹く風で、彼はとにかく南方ルートを一気に進撃し、ベルリンになだれ込むことを目標としていました。パットン将軍にとって最大の悩みは補給ルートで、進撃すればするほど補給ルートは長くなり、周辺を完全に掃討することなくどんどん進撃したために、その補給ルート上で、分散的ではあったもののドイツ軍の抵抗を受けることもあり、レッドボールエキスプレスと呼ばれたトラック輸送部隊を最優先で、前線まで補給物資を運ばせていたものの、本来であれば安全に走行できるはずの補給ルート上で、そのトラックが攻撃を受けることもあり、燃料を始めとする補給物資が届かないことにより進撃のスピードが停滞することに業を煮やしていました。

一方で北方ルート、すなわちオランダからライン川を渡りドイツ国境に侵入しようと考えていた英軍のモントゴメリー将軍との間に補給物資の「奪い合い」が勃発してしまいます。連合軍最高司令官で米・英・カナダ軍を始め自由フランス軍、ポーランド軍などを統括していた米軍のアイゼンハワー将軍は単に作戦上の決定だけでなく、誰に(その国に)解放の手柄を渡すか・・・という複雑な政治的な判断をも迫られることになります。
例えば戦後を見据えたときにはフランス、特にパリの解放は自らの手で・・・と主張する自由フランス軍のド・ゴール将軍の主張も政治的には考慮すべきことでしたが、それはノルマンディ上陸作戦以来、多くの犠牲を伴いながら進撃してきた米英軍にその栄誉をド・ゴール将軍に譲れと命令することでもありました。

一方の英軍のモントゴメリー将軍は北アフリカ戦線で、ロンメル将軍率いるドイツのアフリカ軍団を打ち破ったイギリスの国民的英雄であり、表面的な戦術的判断ではなく、米軍のパットン将軍と英軍のモントゴメリー将軍の進撃レースは、司令部はどちらを優先するのかという連合軍内部の政治的なジレンマになってしまっていたのです。

MG作戦図

そんな中で、業を煮やしたモントゴメリー将軍が立案したのがこのマーケット・ガーデン作戦でした。それは空挺部隊により進撃路にある5つの橋を占領することにより、一気に地上部隊を進撃させ、新しい補給ルートを確保しドイツ国境を突破するという作戦で、モントゴメリー将軍にとってはパットン将軍との物資争奪戦に終止符を打ち、進撃レースに勝利するためには必要な作戦でした。

ところが、この作戦はあまりに複雑、かつ予測不可能な要因で作戦全体の成功が左右される極めてリスキーな作戦でした。しかし、仮にこの作戦が成功すれば、パットン将軍の進撃ルートよりも早く、英軍がドイツ国内に侵入することが可能となり、1944年のクリスマスまでには戦争を終結させることのできる可能性を秘めた作戦だったのです。珍しく、連合軍が希望的観測に基づくベストケース・シナリオをベースとした作戦を立案した背景には、連合国各国の手柄争いという政治的な背景と、パットン対モントゴメリーという個人的な功名争いという、戦術的合理性に基づく作戦計画とは異なる次元の要素が影響していたのです。

Paratroop.jpg

空挺部隊はその携行する装備が限られるとともに、投入する兵員と物資が全て無事に降下できるとは限りません。それは地上からの迎撃であったり、当日の天候により着地地点が分散してしまったりと、不確実的な要素が大きく影響します。またこの作戦はその降下地域に反撃するドイツ軍が殆どいないという前提に立っており、事前の写真偵察や地元のレジスタンスからの情報で、その地域にドイツ軍の精鋭部隊が再編成のために駐屯している可能性があることを知っていたにも関わらず、強引に作戦を強行してしまったことにあります。予定通り、地上軍が占領した橋を渡って進撃したとしても、限られた物資でその到着まで橋を確保しなければならない空挺部隊の隊員にとっては、一日の遅れが命取りとなるギリギリの作戦なのですが、この楽観的で功名心から生まれた作戦は強行されてしまったのです。

この記事は映画のご紹介ですので、作戦の結末は映画を見ていただければと思うのですが、この映画は1977年に英仏合作で制作されたものです。原作はノルマンディ上陸作戦を描いた「史上最大の作戦(The Longest Day)」で有名なコーネリアス・ライアンによる「遥かなる橋」で、「史上最大の作戦」も映画化され、名画として有名であるのはご存知の通りです。
コーネリアス・ライアンは作戦全体を綿密なリサーチに基づいた個々の象徴的なエピソードを交えて描写する技術に長けた作家で、この「遠すぎた橋」もその原作を基に作戦の全容とその問題点を上手く抽出して描いています。
出演した俳優陣も錚々たるもので、ロバート・レッドフォード、ジーン・ハックマン、マイケル・ケイン、ショーン・コネリー、アンソニー・ホプキンスといった名優が顔を揃えており、その配役も実に適役だと思います。
監督はリチャード・アッテンボローで「紳士同盟」や「大脱走」といった作品に俳優として出演した後に映画監督となり、この作品のほかにも「ガンジー」、「コーラスライン」などの作品を手がけた名監督ですので、映画としても駄作となる要素はありません。

しかし、私はこの映画を「超大作戦争スペクタクル」と形容するには少し抵抗があります。「史上最大の作戦」は確かに超大作戦争スペクタクルという表現が適当かと思いますが、この作品で描かれているのは作戦成功に疑問を持ちながらも命令であればと出撃して最善を尽くそうとする空挺部隊の指揮官や、その指揮官を信頼し最後まで堂々と戦う兵士達、そして占領するドイツ軍から解放されるとは言え、自宅が戦場となり愛する家族を失うオランダの人々の苦悩で、そこには第二次大戦のヨーロッパ戦線における連合軍作戦史の汚点と言われるこの作戦の悲劇だけでなく、戦争そのものの本質が描かれています。

一方で、映像的に素晴らしいのはその殆どが実写で撮影されたシーンの数々で、当時はまだCGがなく、その迫力はやはりCGでは超えられないものがあります。
特に白眉なのは空挺部隊を載せたC-47輸送機が離陸するシーンで、敵地に兵員と物資を運ぶグライダーを牽引して離陸する際に、そのロープが解けていく様を撮影したカメラワークは、これまでの戦争映画の描写の中でもベスト3に入るシーンだと思います。

日本映画が未だに真珠湾攻撃と特攻ばかりを題材にしている事に対して、こうして作戦計画の欠陥により失敗した作戦を美化することなく、巨費を投じて映画化したことは素晴らしいことだと思います。
日本も当時の軍部のお粗末な作戦計画により、どれだけ日本兵が無駄死にしたかを描いた映画があるべきだと思うのですが、不思議なことに戦争に勝った欧米側がこうして自分達の汚点をさらけ出して戦争の無駄と悲劇をきちんと描いていることに対して、敗戦した日本がともすれば自分達の犯した失敗には目を瞑り、戦争の悲劇と特攻を美化するような作品ばかりを作っていることは残念でなりません。

8月は日本人にとって特に戦争について考える季節だと思いますが、太平洋戦争だけでなく、ヨーロッパでの戦争を描いた映画を見るのも戦争というものを客観的に考えることができるのではと思います。
過去にはテレビでも放映されましたのでご覧になった方も多いとは思いますが、興味を持っていただけたなら改めてご覧になっても損はない映画だと思います。

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テーマ:映画紹介 - ジャンル:映画

Toward the Access 600,000

Toward the Access 600,000

気がつけば600,000アクセスが目前に迫ってきました。またこの記事の記事番号が967ということですから、足かけ6年で1000本近い記事を書いてきたこととなります。

当初は世間一般のクルマ関連のブログ記事のように、メンテナンスやドライブレポートを中心に記事を書いてきたのですが、自分自身で書いているうちに、段々とそういった日記的な記事がつまらなくなって来てしまい、最近はめっきりとその種の記事が減ってしまいました。引き続き、以前のような「地獄巡り」をご期待をいただいている読者の方もいらっしゃるかと思いますが、恐らく今後はさらに減っていくだろうと思っています。

一方で、近年増えてきたのが取材に基づいて書かせていただく記事で、当事者ではなく第三者として取材をさせていただき、さらに自分自身で分からない技術的なことを調べながら書く記事は、日記よりもはるかに手間がかかるものの、自分にとっても勉強になることが多く、それをいかに皆さんに分かりやすく、かつ面白くお伝えするか・・・という文章表現も楽しみながら工夫してくることができたのではと思っています。

そういった意味ではこのブログはブログではないのかも知れませんが、広告主や発行部数を気にせずに一人で好き勝手に造ることのできる雑誌のような感覚で、編集長、カメラマン、ライターと一人三役を楽しんで行きたいと思っています。

さて、600,000アクセスの記念品ですが、今回は従来のような600,000アクセスを踏んだ方を対象とするのではなく、なるべく多くの読者の皆さんにお祝いしていただけるようにしたいと思います。

600,000アクセスを達成した後に、その記念記事をアップします。そしてその記事にコメントを書き込んでいただいた順番に記念品を差し上げたいと思います。
そしてその記念品ですが、大盤振る舞い?でいつもの1/67スケールのミニチュアモデルを6台用意することにしました。これまたいつも通り、手作りの飾り台に一手間加えたモデルをディスプレイします。
そして、最初にコメントを書き込んでいただいた方から順番に欲しいモデルを選んでいただければと思います。

さて、それでは用意する記念品の6台をご紹介しましょう。

①ASTON MARTIN DBR9

DBR9.jpg

個人的にはPORSCHE 917K に次いでGulfカラーが似合うクルマだと思います。イタリア車好きの皆さんにはどうかと思ったのですが、私自身が好きなモデルですので、是非お受け取りいただきたいと思います。

②FERRARI 330 P4

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FERRARI 250 GTOと並び、最も美しいレーシングカーと言われる330P4です。このモデルはルーフがないタイプを再現しています。個人的にはルーフがあるタイプの方が好きなのですが、こうしてミニチュアモデルで見ると、タルガタイプもなかなか格好良いのではと思います。

③MASERATI Ghibli

Ghibli.jpg

初代のGhibliですが、このGhibliにはシルバーが一番似合うと思います。写真で見ると大柄なGTに見えますが、実車を見ると、直線的な面構成でありながらそのディテールは実に考えられている複雑なデザインだと思います。このミニチュアモデルはその辺りをうまく再現しており、恐らくマスターモデルを造った方は相当なGhibli好きの方ではないでしょうか。

④FERRARI 512BB

512BB.jpg

最早説明は不要でしょう(笑)。LAMBORGHINI MiuraショックからFERRARIが開発したミッドシップフェラーリの魁となったモデルです。そしてボディカラーは鉄板のロッソを用意しました。

⑤FERRARI 288 GTO

288GTO_20120807035612.jpg

これまたフェラーリ好きの方には堪らないのではないかと思います。個人的にもその後のF40よりも美しく、ピニンファリーナのエレガンスが詰まったモデルだと思います。ロッソばかりでは面白くないので、シルバーをチョイスさせていただきました。

⑥MASERATI MC12

MC12.jpg

ロードゴーイングバージョンを用意しましたが、このミニチュアはなかなかゲットできなかったものですので、実車はもちろんのこと、ミニチュアモデルも貴重品?ではないでしょうか。

繰り返しになりますが、600,000アクセス達成後にアップする記念記事のコメント欄に欲しいモデルを記入してお寄せください。二番目以降に書き込まれる方は、それまでのコメント欄を参照していただき、残ったモデルから選択してご記入ください。
6番目の方は「残り福」ということで選択の余地はなくなってしまいますが、この6台であればハズレはないと思います(苦笑)。
いつもは夜中の0時に予約投稿で記事をアップしていますが、この記念記事は私が600,000アクセス達成を確認後に手動でアップしますのでご注意ください。

また、コメント欄に記入いただきましたら、別途メールで本名と送り先住所をお知らせください。

メールの送り先は、

ig510190アットマークaolドットコム

です。スパム対策で一部メールアドレスを読み方表記に変更していますが、正確なメールアドレスはこれで分かっていただけるかと思います。

お祝いとお祭りですので、今までコメントをお寄せいただいたことのない方、たまたまご訪問いただいた方でもどうか遠慮なさらずにお気軽にエントリーしていただければと思います。もちろん毎回チャレンジいただいている常連の皆さんもご健闘をお祈りしています。

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テーマ:車関係なんでも - ジャンル:車・バイク

日本国の失敗の本質

このブログは本来はクルマ趣味にまつわる記事を書くためのもので、お読みいただいている皆さんはそれを期待されていることは充分承知しているのですが、8月という季節柄?、戦争に関する記事を書かせていただくことをお許し下さい。
もうすでに読者の皆さんはお気づきかと思いますが、私は子供の頃からクルマだけでなく航空機や軍事方面にも興味があり、プラモデルを造ったり戦史を読むのが好きだったのですが、当時から勇ましい武勇伝としての戦史には全く興味がなく、歴史学者であったイギリスのリデル・ハート卿の「汝、平和を欲するなら戦争を理解せよ」という金言に深く影響を受け、サンケイ出版の第二次世界大戦ブックスを次々と読破していました。

戦争は国家と国民をある種の極限状態に陥らせるため、その時の決断や行動がその国の国民性を知るには最も有効なサンプルだと思います。
この雑誌はフェイスブックで紹介されて購入したのですが、中央公論社から刊行されている2012年8月号増刊「日本国の「失敗の本質」Ⅱ」に掲載されている各々の執筆者の記事では、日本が明治維新以降にどういう軍事システムを築き、結果として何を行ったのか(行わなかったのか)を太平洋戦争を題材として様々な角度から検証しています。

失敗の本質

太平洋戦争は日本にとってその戦争の動機はともかく、何をもって日本国の勝利とし、どうやって戦争を終わらせるのかという出口戦略がないままに始めてしまった戦争でした。
明治維新以降、日本は日清、日露と近代戦において幸いなことに負け知らずで過ごして「しまい」ました。
当時のアジア各国は欧米の植民地となり、搾取され放題であったにも関わらず、小さな島国であった日本が欧米の植民地にされずに済んだのは、明治維新という欧米の常識からすると内戦状態になるような大革命を、ほぼ無血状態で成し遂げることにより欧米につけ入る隙を与えず、天皇を「持ち上げた」立憲君主制という自前の政治システムをさっさと築き上げたことにあります。
そして、西欧各国が疲弊した第一次世界大戦をうまくかわし、日清、日露という限定戦争を勝ち抜けたことにより、西欧からすると「突っ込みドコロはないけれども、自分達の経験した世界大戦を知らない、すなわち近代戦がどれだけ国家と国民を疲弊させるかを経験していない、何をするか分からない不気味な極東の国家」にしてしまいました。

一方の日本は立憲君主制に分類される政治システムを築いたものの、日本人の国民性から欧米の立憲君主制とは大きく異なる、「責任の所在無き政治システム」を造ってしまいました。
日本人は「権限を行使するものがその結果責任を負う」というルールが苦手な国民だと思います。
当時の日本の天皇はその統治の頂点にありながら、「現人神」であるためにその責任を問われることはなく、軍部も内閣もその最終責任を負うという自覚がないままに様々な決定をして来ました。
太平洋戦争に突入する前に、何らかの限定戦争で「小負け」をしていれば変っていたかも知れませんが、その失敗体験を積まなかったことが、あの無謀な太平洋戦争を始めさせ、さらに負け時を見極められなくしてしまったのだと思います。

国際的な感覚で見れば、国家が戦争をする背景には必ず戦争指導者を必要とします。すなわち戦争に勝利するための全てのリソースを統率し、その結果責任を負う指導者ですが、日本にはこの絶対的な戦争指導者がいませんでした。
交戦国であったアメリカにはルーズベルト/トルーマン大統領が、そしてイギリスにはチャーチル首相がそれに当たり、同盟国においてはドイツのヒトラー総統とイタリアのムッソリーニ総統がそれに当たるのですが、これらは全て「ヒト」であり日本の天皇は「神様」ですから、ヒトと神様が戦争をして神様が負けるはずがないと信じてしまったのです。
独裁者であれ選挙によって選ばれた政治家であれ、その判断を間違ったときには最終責任を取ることになります。独裁者であればビトラーからチャウチェスク、フセインに至るまで、これまでの失敗した独裁者の最終責任はその命をもって贖われていますし、政治家であれば失脚し、場合によっては裁判で裁かれるという末路となりますが、神様をヒトが裁くことはできないことから、日本のこのシステムは近代史において類稀な戦争遂行形態であったと言えるでしょう。

このシステムと精神構造が唯我独尊的な日本人の驕りを生み出すと同時に、責任を取らない軍部と政治の指導者を生み出してしまいます。そして、この本の中で小谷賢氏が書いているように、物事を全て希望的観測に基づくベストケース・シナリオを前提に進めるという日本人の行動パターンにより、どう考えても勝ち目なく、また出口戦略のない太平洋戦争を行わせたのだと思います。
そしてこの責任の所在を明確にせず、物事を希望的観測を前提に進めるという日本人の悪い癖は太平洋戦争で終わらず、戦後の様々な国策にも顕れています。その最たるものが今回の原発事故で、「地震で原子力発電所はビクともしない」という根拠のない希望的観測をベースに日本の原子力開発は行われてきたのです。

この責任を取らない・・・という点は日本人の個人的な資質ではなく、むしろ日本人はそれが不可抗力であったとしても個人の責任を重んずる国民だと思います。
他のどの民族よりも日本人は過度に個人の責任を重んじたからこそ、むしろその責任を回避するために、タテ割のシステムにより権限と責任を分散し、問題が起こったときはその責任をなすり合うと同時に、最後はうやむやにしてしまうという「構造」を造り上げたのだと思います。
武家社会では最終責任を取るということは切腹し自殺することでした。しかし、この日本人の責任の取り方は問題の本質を分析することなしに、腹を切ったんだから・・・とその問題を終わらせてしまうという何の改善ももたらさない不毛な幕引きでしかありませんでした。

私が以前勤務していた外資のメーカーでのエピソードですが、ある日工場の実験室で購入したばかりの高価な実験装置が操作上のミスで壊れてしまったことがありました。たまたま出張でその事実が発覚した時に居合わせたのですが、報告を受けたアメリカ人の第一声は「修理はいつできるのか?」でしたが、日本人の管理職の第一声は「誰がやった?」でした。
本来のプラグマティズム(現実主義)とはこういうことではないかと思うのですが、一方で日本人は欧米人が想像もできないプラグマティズムを持っているのです。

日本人のプラグマティズムの極例が神風特別攻撃隊だと思います。私達はこの特攻を太平洋戦争での悲劇であり、国のために自分の命を捨て、そして後世の日本の繁栄を願いつつ亡くなった若い志願兵の話として知っていると思います。
もちろん個々人の気持ちはそうだったでしょうし、その志や思いは現代の私達が失くしてしまいつつある大切な気持ちだと思うのですが、この特攻作戦はその純粋な気持ちから生まれたものではなかったのです。

この本の中で田中健之氏が書いているのですが、組織的な特攻作戦は海軍の大西瀧二郎中将によって立案されました。「組織的な」という意味は、それまでも被弾した航空機が体当たりをしたケースがあったからなのですが、それはあくまで個人的な判断によるもので、これは日本軍に限ったことではなく、欧米にも同様のケースがありました。
しかし、1944年7月9日にサイパン島が陥落した時点で、当時の日本が設定していた「絶対国防圏」が崩壊することになります。実際にサイパンが陥落することにより、日本の国土の殆どがB-29の作戦行動範囲内となり、占領した南方からの物資が日本に届かなくなることから、それ以降の戦闘の継続は無意味となります。
すなわち戦略的な意味での戦争はこの時点で負けで、それ以降の敗戦までの1年以上の戦闘は、日本の政府が降伏という判断をできなかったことによるものなのです。
もしこの時点で降伏していたならば、東京大空襲も、沖縄戦も広島・長崎の原爆投下もなく、どれだけの軍人と民間人の命が救われ、それらの人々がどれほど戦後の復興と世界人類の繁栄に貢献したかと思うと、戦後の東京裁判で戦勝国の論理により裁かれなくとも、日本人としては戦争に負けた責任ではなく、同胞を無駄死にさせた罪は万死に値すると思います。

しかし、この時点で降伏せずにさらに戦闘を継続するためには通常の戦術では不可能であることから、「現実的かつ合理的に」立案されたのがこの体当たり攻撃だったのです。
現代の巡航(対艦)ミサイルは攻撃目標を設定して発射すると、発射された巡航ミサイルは敵のレーダーに捕捉されないように低空を飛び、弾頭のビデオシーカーで目標を認識し、その軌道を修正しながら目標に命中します。
つまり、当時の体当たり攻撃は現代のミサイルが電子的に制御して行うことを人間にやらせていたので、言い換えれば太平洋戦争時代に現代のミサイルを持ち込んだことになるのです。

戦後に米軍の記録とも照合した結果、陸海軍の特攻による命中機は450機に上っているそうです。これを出撃した特攻機全体の命中率に換算すると15%になります。これがどれだけ凄い数字かと言うと、戦闘艦からの砲雷撃による実戦での命中率が2%、航空攻撃においても真珠湾攻撃のように奇襲でしかも相手が停泊しているような場合を除けば、同様の確率とのことですから、この特攻攻撃は決して捨てばちの自殺行為ではなく、相手を攻撃するための空母がなく、あったとしても着艦はおろか発艦もできないような練度の低いパイロットしかいないという状況の中で、最も効果的に相手に損害を与えるためには・・・という観点で立案された立派な「作戦」だったのです。
もちろん大西中将は部下の兵士に「死ね」と命ずるような作戦は「統率の外道」と考えており、敗戦後に「死をもって特攻の英霊に謝せん」と割腹自殺を遂げます。

しかし、彼のように冷徹に作戦として特攻を命じた作戦責任者だけでなく、作戦上も戦略上も何の効果も期待できない状況で特攻隊を送り出した指揮官は数多く、そしてそれらの指揮官は戦後も生きながらえていたことは特筆に価します。
つまり、特攻を人間を巡航ミサイルの部品にすることだと熟慮の末に実行した指揮官は、その判断の責任を自らが負ったことに対して、敵に損害を与えるための作戦としての特攻ではなく、特攻そのものを手段ではなく目的として命令し、特攻隊員を無駄死させた指揮官は、その自らが下した命令の真の意味すら分からずに、結果として何の責任も負わなかった(感じなかった)ということだと思います。

日本人の「失敗の本質」はここにあると私は思います。

究極の国難に際して人間を部品にする作戦を考え、部品になることに誇りを持つことのできる民族は世界においても稀有だと思います。しかし、その現実主義もそれに応える行動も失敗の後始末でしかなく、太平洋戦争そのものが、冷静な現実主義による戦争という判断でもなんでもなかったことが、福島の原発事故の際に死ぬ覚悟で発電所に留まり、被害を食い止めた東電の「現場の」の責任者と職員達と、東電の役員、原子力委員会、そして政治家の言動とタブって見えるのは私だけではないと思います。

この雑誌の内容は、一部に太平洋戦争の作戦史を知らなければ分かりにくい記事もあるものの、全体としては一般的な知識があれば充分読むことの出来る内容で、時代と事例を読み替えて現代の様々な事象に当てはめて見ても、日本人が過去の失敗からどれほどのことを学んだのか・・・と考えさせてくれます。
雑誌ですので、この記事を読んで興味を持っていただけたなら早めに購入されることをお勧めします。

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テーマ:軍事・安全保障・国防・戦争 - ジャンル:政治・経済

父の戦争

今年も8月になり、太平洋戦争のドキュメンタリーや映画がテレビで放送されるようになりました。

後の歴史家がその戦争の意義と背景を客観的に分析することはとても重要なことだと思いますが、どんなに意義があったとしても、戦争が人間の行う最悪の所業であり、その結果が悲惨であることに変りはありません。

1945年8月15日に日本はポツダム宣言を受諾し太平洋戦争に敗戦したのですが、交戦相手国にとってこの日は対日戦の戦勝記念日でもあります。日本ではこの8月15日を「終戦記念日」と表していますが、私はこの「終戦」という言葉に何となく欺瞞的な意図を感じてしまいます。確かに日本はポツダム宣言という降伏条件を受諾したので、その条件そのものが無条件降伏に近いものであっても、無条件降伏ではないという論拠は理解できますが、それはやはり「敗戦」でしかなく、「講和」でも「終戦」でもなかったと思います。
昔から日本では「撤退」や「敗走」を「転進」と呼び、「全滅」を「玉砕」と言い換えてその本質を誤魔化して来たのですが、その誤魔化しの延長線にあるのがこの「終戦」という表現のような気がします。

一昨年に他界した私の父は従軍体験者です。その証拠?に父は通常の国民年金、厚生年金に加えて定年まで勤めた銀行からの企業年金、そして軍人恩給を受給していました。そういった意味では最も手厚い年金受給者であったと言えるのですが、その従軍体験については生前あまり語ることはありませんでした。

一方で、私の叔父はアメリカ人で同じく太平洋戦争の従軍体験者です。実は、私の叔母が戦後に進駐軍としてやって来た米国海軍のパイロットと結婚したからなのですが、私がその事実を知ったのは確か中学生くらいの頃だったと思います。
何故なら、叔母が叔父と結婚した当時の日本では、こうした国際結婚は親族にとってあまりいい顔はされず、交際している時も叔母が叔父から貰ってくる米軍の物資を喜ぶ一方で、陰では随分と酷いことを言われ、叔父が帰国することになり、結婚して叔母を連れて行きたいと言った時に、勘当とまではいかずとも絶縁状態となり、音信が途絶えていたのです。

こうして叔母は叔父とともにアメリカに渡り、しばらくは海軍基地のあったサンディエゴに住んでいましたが、その後に叔父が退役して、航空機メーカーのグラマン社に勤務するようになってからは、転勤でシアトルを始め、ドイツや北欧などを転々とし、叔父がリタイアしてようやくまたカリフォルニアに戻って来ました。
グラマン社は現在に至るまで数多くのアメリカ海軍の航空機を製造してきたメーカーで、戦時中はF4Fワイルドキャット、F6Fヘルキャット艦上戦闘機に始まり、近年のF-14トムキャットに至るまで、一時期は空母に搭載されている全ての固定翼機がグラマン社製だったほど米海軍とは密接な関係のある航空機メーカーです。
叔父は大学でエンジニアリングを専攻していたために、退役した後にこのグラマン社の技術アドバイザーとして実際の飛行経験を基に主にセールスサポートを行っていたのです。

再び親族の付き合いが始まったのは私が大学生のときで、来日した叔父とつたないながらも英語で会話ができるのが私だけだったこともあり、叔母の通訳を介さずに様々な話しをしました。
叔父は私が飛行機好きであることをいたく喜んでくれ、その後もグラマンの広報生写真やらサンディエゴのミラマー基地のPX(売店)で様々なグッズを買っては送ってくれました。ちょうどその時、映画「Top Gun」が全米で公開され、日本での公開前にいち早くビデオを送ってくれたのですが、字幕がないために見るのに往生した記憶があります(笑)。

TBM.jpg

戦時中、彼は写真のTBMアベンジャーという雷撃機のパイロットでした。このアベンジャーという雷撃機は不恰好ながら、日本の艦船を多く撃沈した名機なのですが、叔父自身は幸いなことに偵察任務が殆どで、実際に雷撃を行うような戦闘に参加したことはなかったそうです。事実、叔父が空母に配属された当時は、戦艦大和も既に撃沈されており、連合艦隊の艦船は殆ど残ってはいませんでした。

EssexClassAC.jpg
写真はEssex級航空母艦ヨークタウン(二代目)

叔父が乗り組んでいた空母の名前は失念してしまいましたが、Essex Classと言っていたのは憶えていますので、米国海軍の大型の正規空母だったのでしょう。このEssex級航空母艦は1942年から就役を始めた米海軍の空母で、戦後も改造されながら1991年まで現役であった名艦です。

そして父は戦時中は大学生で明治大学に通っており徴兵を免れていたのですが、理系ではなかったために法律改正に伴い、ついに徴兵されることとなりました。
父は学徒出陣の二期生で、実際に入隊するときにはニュース映像にも残っている一期生の「雨の神宮行進」といった華々しいセレモニーもなかったそうです。徴兵された陸軍では砲兵隊に配属されたものの、その当時には父を外地に運ぶ輸送船すらなく、無駄と知りつつ高知の海岸で本土決戦に備えて砂浜に竹槍を刺してバリケードを造ったり、タコツボと呼ばれる兵士が隠れる穴を掘る毎日だったそうです。
結果として米軍の本土上陸作戦前に日本は敗戦し、父も生き残ることができたのですが、父の同期の友人の中には人間魚雷「回天」という特攻兵器に乗るために訓練中に命を落としたり、戦艦大和に乗り組んで戦没した者もいたそうですので、やはり徴兵されることは明日をも知れぬ命であったのです。

別の機会にその当時の気持ちを父に聞く機会があったのですが、どんなに大本営発表で日本が勝っていると言われても、度重なる空襲と物資不足からとても日本が優勢とは思えず、最後には高知の海岸で上陸してくる敵と刺し違える覚悟はあったものの、それで戦争に勝てるとは思っていなかったそうです。では、それでも何故戦うのかと聞くと、自分達が敵に多大な犠牲を強いることにより、少しでも有利な講和ができれば・・・という思いだったそうです。そして当時のインテリと言われた大学生はその程度の戦況分析力は持っており、父と同じく徴兵された同級生も皆、同じ気持ちだったそうです。
一方の母は戦時中は通っていた女学校が飛行服の縫製工場となり、鉢巻を締めてミシンを踏む毎日だったそうで、被弾し不時着したB-29を見に行った時に、機体の傍で亡くなっていた敵の搭乗員の着ていたフライトジャケットを見て、自分達が縫製している飛行服との違いを初めて知り、これは負けるのではと思ったそうです。

そして、叔父と一緒に酒を飲み始めて酔っ払った父は、私に通訳しろと言ってとんでもない話を始めてしまったのです。

父の部隊は高知の海岸線で米軍の上陸を水際で撃退するのが任務だったのですが、毎日決まった時間に決まった方向から偵察にやって来ては、民間人であろうが動く物を見つけると適当に機銃掃射をして行く米軍の艦載機には閉口していたものの、応戦許可が出ずに飛んで来る時間になると隠れる毎日だったそうです。
飛んできた艦載機は写真のチャンスボートF-4Uコルセアという戦闘爆撃機で、独特のガルウイングからすぐに分かったそうです。

F4U4.jpg

しかし、そんな父の部隊にも応戦するチャンスが訪れます。師団命令で、本土決戦に備えて細々と補給される機関銃の弾丸が一定の量になったら応戦して良し、と言われていたそうなのですが、ようやくその規定の弾薬が溜まったのです。そしてその攻撃の指揮を大学生であったために陸軍少尉として任官していた父が執ることになりました。

92HMG.jpg

父の部隊には対空機関砲などはなく、92式重機関銃という陸戦用の機関銃しかありませんでした。しかし92式重機関銃は口径7.7mmで発射速度は遅いものの光学式の照準器を備えており命中精度が高い機関銃でした。
対空戦闘での最大の問題は弾道の目視で、飛行機の機銃や対空機関銃には通常は曳光弾と呼ばれる光る弾丸を一定間隔で通常の弾薬に混ぜて発射することにより、その弾道を目視できるようにするのですが、陸戦用では弾着する先は地面や建物ですので、この曳光弾は必要なく、補給された弾丸にも曳光弾はありませんでした。

しかし、敵機は一度も応戦されたことがないために完全にナメ切っており、警戒することなく毎日定期便のように2機編隊で、決まった方向から高知の海岸に侵入して来たために、父はその敵機を最も狙いやすい位置に機銃を据えて、予め試射をして弾道を確かめて、コルセアが飛んでくるのを待ち受けることにしました。万が一討ちもらせば敵機からの反撃は必至でしたから、そのまますぐに退避できるように岩場の陰を選んで、予め退避路も確保しておいたそうですので、父を始めとする機銃隊全員はそこで死ぬ気などさらさらなかったのでしょう。

そして、ついにコルセアがやって来ました。やはり前日と同じお決まりの偵察コースです。

その時の父も機銃隊全員も攻撃できることを素直に喜んで、勇気百倍だったそうですが、冷静に考えると実にリスキーな攻撃でした。陸上戦闘用では重機関銃という名前でも7.7mmという口径の機銃は対空機銃としては豆鉄砲のようなもので、仮に命中したとしてもコルセアを始めとする当時の米軍機は防弾装備が行き届いており、撃墜することは難しかっただろうと思います。

さらにこの92式重機関銃はベルト給弾式でマガジン一つには30発しか弾丸がなく、相手が飛行機であるとせいぜい撃てるのはマガジン交換の時間も入れると60発が限度でした。ですので、せめてもの優位性は相手が警戒していないことと、最初から狙いをつけておけるということしかありませんでした。
私は父がこの話しをしているときに真っ先にこの指摘をしたのですが、父はそれには答えずに、「当てる自信があった」としか言いませんでしたが、もし私が指揮官であったなら92式重機関銃では攻撃しなかっただろうと思います。
しかし、父の部隊は予定通り攻撃を行いました。最初の30発のマガジンを撃ちつくしてもコルセアはびくともしなかったために、危険を感じた父は攻撃止めという命令を出して機銃隊を退避させたそうです。
ここからは想像なのですが、射撃した弾丸が曳光弾ではなかったこととマガジン一連のみの射撃であったことが結果として功を奏し、ひょっとしたらコルセアは撃たれたことにすら気づかなかったのではないかと思われます。

攻撃は失敗に終わったかと思われたのですが、たまたま機銃弾がエンジンに当たったのか、後に2機のコルセアの内の1機が洋上に墜落したとの連絡を受け、父の機銃隊は褒美に一升瓶を部隊長から貰ったそうです。

この話を酔っ払った父は、叔父に通訳しろと言いながら話したのですが、「オレはシコルスキー(当時のコルセアの日本での呼び名)を撃墜したぞ」で始まるこの話を通訳し終えたとき、叔父は複雑な表情で私にパイロットはベイルアウト(パラシュート脱出)したのか聞いてくれと言われたのですが、父は墜落したところを見ていないために分からないとしか答えられませんでした。

最後は二人とも酔っ払い、「不幸な時代だった」ということで終わりにしたのですが、あの時の叔父の表情を忘れることはできません。

戦争がなければ出会うことのなかった叔父と叔母ではありますが、両国で戦争を経験した方がどんどんと鬼籍に入り、こうした戦争の記憶が語られることがなくなるということは同時に、米国はともかく日本人に戦争のリアリティを失わせて行くことになります。
せめて、生でこうした話を直接聞くことのできた私達の世代が書き残しておきたいと思います。

(この記事はフェイスブックのウォール記事で書いたものを加筆再編集しました)

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テーマ:戦争 - ジャンル:政治・経済

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