今回の朝カフェに乗っていったクイック・トレーディングのリセットによるLANCIA Delta Integraleですが、その状態はまだ最終形ではありませんでした。それはホイールリペアで、間に合わなかったために少し傷の入ったホイールを履いていたのですが、そんな瑣末なことは別にして、参加された皆さんは興味深く覗き込んでいました。
LANCIA Deltaはこのリセットカー以外にも参加していました。
こちらは随分と手が入ったDeltaですが、そのヤル気仕様はとても格好良く、多くのDeltaオーナーがこうしたモディファイを施すのが良く分かります。
白金台アルファロメオクラブにはSZ,RZ両方のES30が所属しています。ですので、私たちは見慣れているのですが、街中で見かけることはまずありません。最近乗ることが多くなったES30ですが、実際に乗っていると多くの方に「これは何というクルマですか」と訊ねられます。それはおそらくフォロワーが全くいないその独特のデザインだろうと思うのですが、それは単に奇抜であるというだけではなく、そのデザインに魅力があることの証ではないかと思います。il Mostoro(怪物)と呼ばれたES30ですが、それは20年という時を経て、愛すべき「怪物くん」となったのかも知れません。
今回初参加のALFAROMEO Alfa75 Twin Sparkです。Alfa75は私が初めて購入したアルファ・ロメオで、現在のようなM体質のイタ車ドロ沼生活?に陥るきっかけとなったクルマです。
クルマそのものは、現在の目で見ても本当に素晴らしい「設計」でした。
5ナンバーボディでありながらちゃんとオトナが4名乗ってくつろげる室内空間。そしてその4人分の荷物を積んでも余りあるラゲッジスペース。ベルリーナとは思えない軽快なハンドリング・・・。その魅力を数え上げるとキリがないのですが、一方で粗悪な部品品質と製造品質に加えてメンテナンスコストが高いことが、Alfa75のクルマとしての魅力を殺いでしまっていました。
しかし、一度このクルマを経験すると、それらのネガは時と共に忘れることができ、良いところばかりが想いだされるというまるで思春期の初恋のようなクルマなのですが、それを20年後に再び乗る・・・という勇気はなく、初恋は初恋として封印しておきたくなる気持ちと同様なのかも知れません。
しかし、こうして「上物」を見てしまうと同窓会で再開した初恋の人が昔と変らぬ美貌であることを知るようなもので、複雑な心境になってしまいました。
一方で対比として面白かったのがこの新旧のSpiderで、Spider Duettoは色褪せることなくずっとその美貌を保ち続けている稀有なクルマだと思います。
そしてこのSpiderの子孫がこちらです。
一見すると全く似て非なるクルマですが、ALFAROMEOのSpiderという家柄はちゃんと守られており、不思議と乗り味には共通したものがあります。
そして遅れてやって来たのは、笹本氏の新しいアシ車であるRENAULT Kangooです。
クルマ選びの段階から周囲を巻き込み盛り上げて楽しませてくれるのは笹本氏ならではなのですが、最後まで秘密にしていたのがその仕上げで、ホイールを塗装しなおして交換し、Gucciのイメージカラーを使ったストライプを貼り込み、さらに彼のセンスで貼られたステッカーは、一見すると商用車然としたKangooをお洒落なユーティリティ・ヴィークルに仕立て上げています。
実は、このホイールセンターのステッカーは私が作成したもので、最初にその全体の仕上げのコンセプトを聞いて依頼されてから、造り方やサイズを話し合いながら作成したものです。
今回、初めてその貼ってある状態を見たのですが、なかなか全体の雰囲気にマッチしているのではと思います。
あとは耐久性でしょうが、半分お遊びですので、再度作成するもよし、また違った方法でアプローチするもよしで、オリジナルを再現しキープするという拘りとは別に、こんな風にクルマで遊ぶのも楽しいものだと思います。
クルマ趣味のない方からすると、大のオトナが・・・と思われるかも知れませんが、その大のオトナが子供に戻ることの出来るこうしたミーティングは、そのオトナが休日に早起きして出かける価値のあるイベントだと思います。
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一ヶ月以上時間が経ってしまったのですが、近年お邪魔しているのが秘密結社?である「白金台アルファロメオクラブ」が主宰している「朝カフェ」なるミーティングです。日曜の早朝に第三京浜の都筑PAに集まりただ喋るだけ・・・というクルマ好きの井戸端会議のようなイベントなのですが、そこに集まってくるクルマと人との触れ合いが実に心地良く、ちょうど小学生の夏休みのラジオ体操のように、その時間にその場所に行かなければ・・・という思いにさせてくれます。
毎回、カメラを持って行きそれらのクルマを見せていただきながら写真を撮らせていただいているのですが、最初の頃は参加されるクルマを満遍なく撮影したのですが、回を追うにつれて参加者が多くなり、そのうち通りがかりのお知り合いまでがおしゃべりの輪に加わるようになると、もはやどれが参加車であるのかが分からなくなってしまい(苦笑)、目に付いた気になるクルマしか撮影することができなくなってしまいました。
オレの車が出てないじゃないか・・・というお叱りもあるかと思いますが、そういった事情ですのでご容赦いただき、今回は私が撮影した参加車をご紹介します。
尚、このミーティングの模様は
笹本氏のブログ で笹本目線?で詳細にレポートされていますのでそちらも改めて読み返していただければと思います。
実はこのミーティングはすでに三回開催されているのですが、そのうちの二回は私が一番乗りでした。しかも今回はクイック・トレーディングのリセットカーであるLANCIA Delta Integraleでの参加で早朝にテストドライブと撮影を行った後の参加でしたので、集合の1時間前というとんでもない時間に到着してしまいました(苦笑)。
それでもいつものようにテーブルを出したりして準備をしていると程なくして、実際の一番乗り?でやってきたのが、このALFAROMEO Junior-Zでした。
Junior-Zはこの白金台アルファロメオクラブの幹事メンバーである青がえるさんの愛車なのですが、こちらはボディカラーがシルバーという渋い佇まいであると同時に、青がえるさんの愛車が後期型(生産台数はこちらが少なく希少)の1600ccであることに対して、初期型の1300ccであるのが特徴です。
確かに生産台数はこの1300の方が多いのですが、希少なのがこのクロモドラ製のホイールで当時のメーカーオプションであったのだそうですが、寡聞にして私は見たことがありませんでした。
そして二番手でやって来たのは何と!LANCIA 037 Rallyでした。
このブログの読者の皆さんであれば、最早このLANCIA 037 Rallyについて解説をするまでもないと思うのですが(苦笑)、それでも一般的な解説は一応しておきましょう。
1983年、WRCではそれまでグループ4というカテゴリーにかけられていたチャンピオンシップを新たなカテゴリーであるグループBに移行することになります。このグループBとは連続する1年間に200台を生産するものという規定で、より多くのメイクスが参加しやすいようにと定められた規定だったのですが、一方で少量生産故にそれまでの市販車のチューン以上に過激な設計が可能であったことから、各社はWRC専用モデルの開発を競うこととなります。
それまでのFIATは市販車を改造したFIAT 131 Abarthで参戦していたのですが、この新しいグループB規定に沿って新たなマシンの開発することとなり、それがこのLANCIA 037 Rallyでした。
外観は当時の市販モデルであったLANCIA Beta Montecarloに似せてはいましたが、中味は全くの別物で、外観のデザインはピニンファリーナの手により美しくまとめられ、フォーミュラーカーの製作で有名なダラーラの手によりBetaより流用されたセンターセクションに前後はチューブラーフレームとする形で新設計され、足回りもダブルウイッシュボーンに変更されていました。
そしてエンジンはAbarthによりチューンされた実績のある4気筒DOHCエンジンが搭載されていましたが、NAではなくAbarthが開発したヴォルメトリーコと呼ばれるルーツ式スーパーチャージャーを搭載していました。 これによりストラダーレは7,000rpmで205hpと現在の目で見ると左程ではないパワーだったのですが、ワークスチューンでは300hp以上のパワーを発揮し、980kgという車重(ストラダーレは1,180kg)とも相まってWRCウェポンとして充分な戦闘力を発揮していました。
駆動形式はMRで、AUDIが一般的にしたフルタイム4WDではなかったのですが、サスペンスションチューニングやドライバーの慣れの問題など、それまでのチューニングノウハウを生かせるMRレイアウトにより、安定した戦闘力を発揮しました。
ストラトスもそうですが、LANCIAのWRCホモロゲーションモデルはある種「手抜き」の塊で、AUDIやFORDの同種のモデルとは一線を画すスパルタンなモデルだと言えます。それはストラダーレとは名ばかりの仕様で、どちらかと言うとエンジンがチューニング前であるだけで、それ以外は殆どワークスモデルと言って良いほどの仕上げです。
それを保有するオーナーにも「それなりの」覚悟が必要で、今回のクルマもこのミーティングを最後に「夏眠」に入るそうです(笑)。
LANCIA 037 Rallyが確信犯的な?夏眠車であることに対して、こちらはラリーウェポンでも何でもないのですが、滅法夏に弱いALPINE V6 Turboです。このクルマの問題はキャビンの暑さではなく、エンジンルームの熱処理の問題で、日本の真夏の渋滞ではオーバーヒート必至のクルマです。このクルマの日本のオーナーは様々な対策を施しているのですが、一番効果的な対策は夏場は乗らないことで(苦笑)、このクルマのオーナーにとっては初めての夏ですので、さぞかし水温計を眺めて冷や汗を流すことでしょう(笑)。
そして、もう一台のMRカーがCollezioneのNさんが乗ってきた「売り物」のFERRARI Mondialでした。
これまでの2台のMRカーと比較すると一番ナニゴトもないのがこのモンディアルであるというのが何とも皮肉な状況なのですが、この個体は加えて程度抜群で、こうしてフツーに乗ってくることができることがそれを証明しています。
モンディアルは308GT4の流れを汲む2+2フェラーリなのですが、308/328GTBの人気の影に隠れてどちらかと言うと不人気なモデルでした。それでもリアにシートがあるということは便利なもので、例えそれがOne Mile Seat(1マイル位しか乗れたもんではないという意味)であっても物置きとして有用で、実は使い勝手の良いモデルなのですが、GTBと比較するとその外観のエレガンスの無さ?から中古車価格も低めで流通しているようです。
しかし、一方で大切に扱われて来た個体も多く、しかもボロかバリものかの見分けがつきやすいため、これからネオ・ヒストリックフェラーリの世界に足を踏み入れようと考えている方にはオススメできるモデルだと思います。
次回も引き続きこのオトナのラジオ体操に参加したクルマ達をご紹介して行きましょう。
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米海兵隊のオスプレイの配備問題は、現在の民主党政権の交渉力と国民への説明力がいかに稚拙であるかを明確にしてしまいました。
ご存知のようにV-22オスプレイはティルトローター方式(回転翼の角度が変更できる)の垂直離着陸機で、離着陸するときはヘリコプターのようにそのプロペラを回転翼として使用し、飛行しているときは普通の固定翼機のようにプロペラを推進機関として使用するという、人類が永年夢見てきた航空機です。
レシプロ機であろうがジェット機であろうが、離着陸に際して滑走することにより揚力を生み出す固定翼機と、ヘリコプターと呼ばれる翼を回転させることにより揚力を生み出す回転翼機は別々に進化してきました。
そしてその各々の航空機の進化のプロセスで誰もが一度は考えたことがあるのが、この二種類の飛行形式の融合で、ヘリコプターのように垂直に離着陸することができ、固定翼機のように高速でしかも長距離飛行できる航空機は、両方の形式の持つ欠点を解消することができる人類の夢でした。
その偉大なチャレンジにより最初に実用化されたVTOL(垂直離着陸機)がイギリスのHawker Shiddley(ホーカー・シドレー)社のHarrier(ハリアー)でした。
第二次大戦後、各国では様々なVTOL機の研究が行われました。滑走路を必要とせずにどんな場所ででも離着陸することができ、空中では通常の航空機のように飛行できるVTOL機の軍事的価値は計り知れないものがあったのですが、その実用化は困難を極め、唯一実用化したのがこのハリアーと旧ソ連のYak-38 Forger(フォージャー)の2機種のみでした。
ハリアーとフォージャーの決定的な違いは、ハリアーが搭載するジェットエンジン1基のノズルが動くようにして離着陸時は下向きに、水平飛行時には横向きにするようにしていたことに対して、フォージャーは離着陸用のエンジンと水平飛行用のエンジンの2基を別々に搭載していたことにあります。
結果としてフォージャーは機体が重くなり、搭載できる燃料も武器も少なくなってしまい何とか実用化したとは言え、とてもマトモに実戦で運用できる機体ではありませんでした。
一方のハリアーもその実用化に至るには厳しい道のりがありました。
回転翼のようにローターが回転することにより揚力を生み出すのではなく、ジェットエンジンのノズルを下向きにして揚力を発生させるということは、機体重量以上の出力(つまりロケットよのうなもの)を必要とするため、ジェットエンジンのパワーがそれだけ必要となり、それはやはりミサイルや爆弾などの搭載兵器の量を限定してしまいました。また、離着陸時に滑走路に向けてジェット排気を吹き付けることになるのも問題で、当初のコンセプトである「どこでも離着陸できる」という点からすると結局は不可能で、未舗装の地面では吹き上げた砂ぼこりがエンジンに吸い込まれダメージを与えてしまったり、草地であれば燃えて火事になってしまうという問題から、やはり運用する場所が限定されることとなりました。
それでもハリアーが実用化できたのはその可変ノズルで、兵装を搭載して離陸する場合は垂直方向ではなく、ノズルを斜め下向きにすることにより、STOL(短距離離着陸機)として運用することができたためで、それで正式空母ではなくヘリコプターなどが離発着する強襲揚陸艦の甲板で運用できたことはハリアーを運用する大きな必然性となりました。
ハリアーの初飛行は1960年と古く、とっくに現役を引退して当然の機種なのですが、それでも現役として使用されているのはハリアーに替わる後継機がないという理由で、途中で開発コストの問題でアキラメてしまったイギリスから開発を引き継ぎ、延々と改良を続けてまでアメリカ海兵隊がこのハリアーを運用しているのは、その戦略上で必要な機種であるからに他なりません。
そしてこのAV-8Bハリアーは岩国基地に駐留するアメリカ海兵隊により日本でも運用されている機種なのです。
オスプレイの配備問題を理解するためには、アメリカがこのハリアーやV-22オスプレイのようなVTOL機に拘る理由をまず理解する必要があります。 アメリカ海兵隊の役割は紛争地域に最も早く展開することにあります。またそれができるということが大きな紛争抑止力になっているのはご存知の通りで、
極東における米軍の使命は第七艦隊の圧倒的攻撃力と、海兵隊の緊急展開力による抑止力にある のです。
アメリカはベトナム戦争の教訓から、とにかく短期間で相手を叩き、いかに戦闘を継続させないかに重点を置いた戦略を取っています。
そのためには紛争の初期段階で投入できる海兵隊の兵力を世界に分散して配置しておく必要があります。だからこそ、米軍の極東戦略においてはグアムではなく日本の基地が重要となってくるのです。
じゃあ韓国はどうなんだ・・・と思われるかも知れません。確かに在韓米軍も重要ではあるのですが、現在はその規模を縮小する傾向にあります。その理由は韓国が駐留経費を日本ほど出してくれないからといった下世話な理由だけでなく、北朝鮮からの最初の攻撃で被害が出る恐れがあるからで、
朝鮮半島有事の際には確実に被害が出る韓国国内に兵力を多く置いておくより、日本から出動したほうがより有効に北朝鮮に反撃できる からなのです。
これがアメリカが日本にオスプレイを展開させる大きな理由です。
オスプレイの最大速度は555km/hで従来のヘリコプターの1.5倍の速さで、航続距離は3.593km(空荷時)にのぼります。しかも空中給油装置を備えているためにこの航続距離はさらに伸びることとなります。
つまり、
オスプレイは沖縄の基地からソウルまでの1,260kmを無給油で3時間弱で飛行できる のです。
私たちはオスプレイ配備に反対する前に、まずこのアメリカの極東戦略を理解しておく必要があります。
アメリカは今までのように世界中に兵力を分散して有事に備える・・・という財政負担はできなくなっています。そうするとオスプレイのような輸送手段を装備し、限られた基地からでもアメリカが考えるアメリカの国益を守るために出動できる(抑止力を発揮できる)ようにしておかなければならないのです。そして極東における米軍の抑止力に日本は日米安全保障条約により守られているのが現実なのです。
残念ながら日本のマスコミはオスプレイの安全性の問題点や反対運動に関しては一生懸命報道しますが、なぜそうまでして米軍がオスプレイの極東配備に固執するのかは殆ど報道しません。
オスプレイの安全性に関して言えば、確かに従来の航空機よりも劣るのは事実だと思います。それは単に設計上の問題だけではなく、その操縦上の問題でもあり、
ハリアーもオスプレイもそのパイロットは固定翼と回転翼の両方の操縦技術を必要とします。 そして既に岩国基地に配備されているハリアーでも1971年の運用開始時から米英合わせて45名が操縦ミスで死亡しており、これはハリアーがこれまでに参加したフォークランド紛争などの実戦での死亡人数を上回っているのです。
そしてハリアーの事故が減ったのはパイロットがその操縦に習熟したからで、オスプレイのような新しいタイプの航空機にはその時間がある程度必要であることはやむを得ないことだと思います。
オスプレイもその1989年の初飛行から20年以上もかけてアメリカが「延々と」開発を続けて来た機種です。その開発段階においてはWidow Maker(未亡人製造機)と呼ばれるほど事故が頻発し、そもそも設計に無理があるのでは・・・と言われ続けて来たにも関わらず、この開発に執着し続けたのは上記の戦略上の理由からで、そうでなければ基地周辺の安全問題以前に、墜落したら確実に被害を被るパイロットも、オスプレイに乗らなければならない海兵隊員もたまったものではないでしょう。
オスプレイが一番危険なのは回転翼機―固定翼機に切り替わる時で、それ以外の状態では試作段階を除けば事故を起こしていないことからも、日本政府は独自に安全性の検証を行うなどという空手形で国民を誤魔化そうとせずに、運用上の制約をつける交渉をすべきだと思います。
すなわち、
基地上空では上記の切り替え操作を禁止し、海上でのみ切り替えを行い、基地から離発着する際には回転翼モードのみで行うという運用上の制約をつける ことにより、少なくとも事故が起こった場合でも市民への被害を無くすことができるでしょう。
そしてさらに、オスプレイの展開力を利用して、海兵隊の兵力の一部を沖縄からグアムへ移駐させるよう交渉し、最悪でもオスプレイの代わりに従来のヘリコプターの配備数を減らすように交渉するべきだと思います。そうすれば結果として安全性を確保しながら沖縄の基地を縮小することができると同時に、極東米軍の緊急展開力も維持することができるのではと思います。
私たちに必要なのはプラグマティック(現実主義)な合目的選択肢に基づく交渉戦術で、この選択肢のないヒステリックな反対運動だけでは何も解決しないのは原発問題もオスプレイ問題も同じだと思います。
(7月23日追記)
本日、オスプレイが岩国基地に搬入されました。マスコミは相変わらず反対するデモ運動や市町村の首長の要望書やら、その首長の「政府の対応に失望した」というコメントを報道するばかりで、わざわざヘリを飛ばしてまでオスプレイが陸揚げされる様子を映したりしています。
そんなことよりも私が驚いたのは、オスプレイが自動車運搬船(Lo-Lo船)で運べることのほうで、主翼を縦に廻すことにより通常の自動車運搬船のタラップで陸揚げできるということです。これなら世界中の多くの港にオスプレイを運搬することが可能で、しかも最低限の組み立てで運用できるのであれば、場合によってはそのまま港湾施設内から離陸することも可能でしょう。
単にオスプレイそのものが持つ機動力だけでなく、こうした分解輸送方法まで緊急展開のことを考慮して設計されていることの意味を一切コメントしない日本のマスコミには呆れるばかりです。
記事の中でも述べましたが、オスプレイの作戦距離がどの国にとって一番脅威かは上の図を見ていただければ一目瞭然だと思います。そしてそのオスプレイの存在が日本にとっても、そして今後のアジアの緊張緩和のためにどれだけ重要かがお分かりいただけるのではと思います。
基地がある町の住民にとって安全の問題は重要であると思います。それは国益であったりアジアの平和などという現実感を伴わない利益よりも、毎日の問題として大きくのしかかってくる脅威だと思います。
それをバランシングするのが政治の役割で、今の日本の政治に欠けている大きな問題ではないでしょうか。
(7月29日追記)
ようやくマスコミのマトモな報道を見ることができました。
本日のフジテレビ「新報道2001」の中で、森本防衛相、石破議員が出席し、オスプレイの問題に関して明確な説明を行っていたのですが、その内容はこれが同じマスコミか・・・と思うほどマトモで説得力に満ちた説明と議論でした。
オスプレイの極東配備は中国との領土問題における抑止力のためであること。従来のCH-46という老朽化したヘリコプターは今後オスプレイに機種変更されること。また事故率も説明され、オスプレイそのものが取り立てて危険とは言えないこと。そして日米安保において日本の国内を飛行するのであるから、日本政府が責任を持って少なくともその安全性を確認すると同時にそれを国民に説明する責任は米国ではなく日本にあること。
またオスプレイのような機種が日本の災害派遣に、また有事の際の邦人救出に有効なのではという議論に始まり、日本の安全保障のためにはむしろ自衛隊がオスプレイを装備し、海兵隊的な緊急展開能力を持つ部隊を整備すべきではないかという一歩踏み込んだ議論までされていました。
ここでようやく
オスプレイの問題はそもそも機体の安全性の問題ではなく、政府の説明とその手順のマズさという政治問題である ことが明確になったのではと思います。
不思議なことに今回の番組はそれまでのヒステリックなオスプレイは危険・・・という一方的な論調ではなく、本来報道が果たすべきである、冷静で多面的な視点からの問題の解説という役割を果たしていたのではと思います。「そうでなければ出ない」と両氏が言ったのかも知れませんが、地元も今回のような説明がマスコミの報道を含めて、最初にされていればまた違った反応になったのではと思います。
原発事故の問題のときにも感じたのですが、政府はどうも国民を愚民だと思っているフシがあり、どうせ説明しても理解できないだろうからと適当にあしらっているような気さえします。現在のような様々なニュースソースとネットワークがある時代において、その愚民政策の結果は単に政治不信しか生み出さないことを政治家は肝に銘じておくべきだと思います。
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テーマ:軍事・安全保障・国防・戦争 - ジャンル:政治・経済
「50万円ですか…」
覚悟をしていたとは言え、その金額はあまりに理不尽に思えた。買い替えではなく買い取りだったせいもあるのだろうが、リセールバリューを最優先して選んだ車の金額として考えると、とても納得できる金額ではなかった。
「それでも高い方なんですよ。人気のボディカラーで最上級グレードですし」
査定した営業マンは申し訳なさそうにそう言った。
慎二がその国産車を新車で購入したのが6年前。それまでは中古車しか買うことができなかったが、やっと新車を買える身分になったと自分自身でも感慨にふけったものだった。しかし、新車を買うに当たっては父の助言を受け入れなければならなかった。それは資金援助を受けたためでもあったが、慎二が子供の頃から受け続けた父の価値観の影響も大いにあった。
慎二の父は大手財閥系銀行の支店長だった。全ての物事において慎重で確実性を考え、酒とゴルフを嗜む程度で、一切のギャンブルには手を出さず、宝くじすら買うことのないマジメな男だった。
その父の助言はかつて父自身がそうして来たように、リセールバリューを第一とし、個人の好みをクルマ選びに一切持ち込まないというものだった。
父は借金が嫌いで、自らも一切借金をしなかった。銀行とは貸付金の金利で成り立っているので、借金をしてくれる人がいなければ成り立たない商売であり、一見すると矛盾した考えであったが、個人と会社は別と父は涼しい顔をして答えたものだった。
結婚してようやく新車を買うことにしてローンを組もうと父に相談したときに、ローンを組まずに資金を援助すると申し出たのは父で、そのときの条件がこのリセールバリュー第一というものだった。
慎二はそのクルマに全く思い入れはなかったが、世間で一番人気のあったクルマであったことから、カタログすらろくに見ることなしに、ボディカラーがホワイトの最上級グレードを買うことにした。
街中で同じグレードのそのボディカラーのクルマを多く見かけることも実際に売れていることの証明ではあったのだが、慎二にとっては目障りでしかなかった。
ホワイトのボディカラーが一番色褪せもせず、好き嫌いの影響があまりないことから、リセールバリューを考えるとそれが一番良い選択であることは分かっていたのだが、慎二にはそのクルマにもそのボディカラーにも何の思い入れも湧いては来なかったし、最上級グレードの一体何が最上級なのかすら良く分かってはいなかった。
それまでの中古車選びの方がはるかにエキサイティングで、中古車雑誌を隅々まで読み、実際に何軒も中古車店を廻り、ようやく気に入った一台を見つけたときの喜びはひとしおで、実際に納車されるまでの間は手に入る様々なアクセサリーパーツのカタログを見たり、そのクルマの試乗記が掲載されている自動車雑誌のバックナンバーを古書店で探したりと随分と楽しむことができた。
慎二は、それがたとえ予算がないための妥協の結果であったとしても、その中で自分自身が納得した本当に好きなクルマを買ったからであったことを、こうして新車を買うことになったときに初めて気が付いた。
そして、慎二にとって人生初めての新車は、何の高揚感も感動もなく、慎二が仕事に出かけている平日の昼間に納車された。
しかし、そのクルマは実際に乗ってみると故障もせずに良く走ってくれた。それまでの中古車は故障して何かしら修理を必要としたのだが、さすが新車だと故障はなく、さらにディーラーは3年間故障修理に関しては保障してくれたので、何の心配もなく運転することができた。
そして慎二はクルマを買うという高揚感に続いて、それまでは中古車故の宿命だと思っていた様々な異音や不具合に敏感になりながらクルマを運転するという楽しみも失ったことに気づいた。
アルファ156には一目惚れだった。初めて街中でアルファ156を見たときに、世の中にこんなに美しいクルマがあるのかと思った。今乗っている国産車に特に不満な点はなかったが、アルファ156に比べるとその外観は何ともアンバランスで、それまで気にもならなかった自分のクルマの全てが一気に陳腐に見えた。
気がつけばディーラーを訪ねていた。セールスマンから一通りの説明を受けたが上の空だった。そして知らされたのがアルファ156はバックオーダーを抱えており納車は半年後になるということだった。
慎二にはとてもその半年が待てなかった。これから半年もあのハリボテのようなクルマに乗り続けることに我慢が出来るとは思えなかった。
アルファ156に出会うまでは、クルマなんてこれで充分と思っていた初めての新車であった自分のクルマが、あっという間にこれほどまでに色褪せてしまうとは自分自身でも全く理解できなかったのだが、それが正直な気持ちなのでどうしようもなかった。
こうして、慎二はセールスマンの薦めで試乗車であったアルファ156を買うことにした。ボディカラーや仕様など慎二の希望とは異なっていたが、そんなことは気にならなかった。それよりアルファ156であることの方がはるかに重要なことだった。
案の定、父は猛反対した。
父はアルファ・ロメオというイタリア車のことを「知っている」という程度で、壊れる。修理費が高い。リセールバリューが(恐らく)ない。ということから、父の価値観からすると全く受け入れられない選択であった。
慎二がアルファ156について熱く語れば語るほど、父は、「冷静になって良く考えろ」と言うばかりで、それはもはや議論ではなく、車に対すると言うより人生に対する価値観の相違となって、お互いに譲れない状態になってしまった。
慎二は人生で初めてローンを組んだ。
それまでの貯金と今の車の買取り額を合わせても、アルファ156の値段には到底届かなかった。これから生まれてくる二番目の子供のことも考えると、このローンは心の重荷になったが、父の援助は到底期待できなかったし、父とのこの議論は「勝手にしろ」という父と子の喧嘩の「決め台詞」で終止符が打たれていた。
考えて見れば慎二にとってこの決断は父に対して翻した初めての反旗であった。
それまでの慎二は父の助言に従って物事を決めてきた。それは父に盲従していたのではなく、父の助言を自分自身ももっともだと思ったからで、知らず知らずのうちに父の価値観が慎二自身にも刷り込まれていたのかも知れなかった。
しかし、アルファ156は慎二自身も気が付いていなかった父のものとは異なる自分自身の価値観に気づかせてくれた。
慎二にとってアルファ156は最早、今まで乗ってきた車の中の一台ではなく、人生の中で出会うべくして出会った一台であり、初めてのローンも、父との初めての確執も、自分自身が今まで気づくことのなかった父からの自立だったのかも知れない。
こうして手許にやってきたアルファ156に慎二は心酔した。多少の意地もあったのかも知れないが、それまでの国産車では起こりえなかった瑣末なトラブルも気にはならなかったし、かつての中古車のような感覚を研ぎ澄ませて運転するという「癖」もすぐに取り戻すことができた。
アルファ156がやって来てから、しばらく父とはクルマの話を全くしなくなった。
「全然、違うな・・・」
初めてアルファ156の助手席に乗った父は一言だけそう言った。
決して、激しい運転をした訳ではなかったし、どちらかと言うと大人しく運転したつもりだった。
しかし、父の口調は決して批判めいたものでもなければ、その言葉の後に文句が続くようなものではなく、どちらかと言うと、穏やかで、そして少し寂しげな口調だった。
「ああ・・・」
慎二も穏やかにそう応えた。
何となく。本当に何となくではあるが、慎二はこれからは父と親子ではなく、男同士としての話ができるような気がした。
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テーマ:ひとりごと - ジャンル:車・バイク
東日本大震災での救援活動で自衛隊がどれほど貢献したかはもはや議論の余地はないと思います。
その中で自衛隊の持つ装備が活躍したことは大きく報じられましたが、それ以上に一般の人々に驚かれたのが自衛隊の救援物資の配布方法ではなかったかと思います。
それは実際に救援物資を受け取った被災者からも聞かれた感謝で、午前中に被災した地域を自衛隊員が廻り、細かく必要な物資の情報を聞き取り、それが翌日には届けられたことに対する驚きと感謝は被災者だけでなく、その様子をTVなどが取り上げることにより、多くの国民がそのキメ細かい対応に驚いたのではないかと思います。
しかし、考えて見れば自衛隊に限らず軍隊が持つ機能の最も重要なものがこの兵站機能で、必要なときに必要な部隊に必要な物資が届けられることが戦闘を継続することができる最大の要素で、これがなければどんな最新鋭の装備も役に立たなくなってしまいます。
彼らが実際にそうして各戸を廻り、聞き取ってきた情報は、トイレットペーパーからハエ取り紙に至るまで様々な物資の要求なのですが、それがコンピュータにインプットされ実際の救援物資の集積場所から必要な場所に移送される手順は、扱うモノこそ違え、自衛隊がどの部隊であっても日常から訓練している戦闘時の補給訓練の延長線上にある作業だったのです。
この戦時のロジスティクスが最も優れていたのが米軍で、第二次世界大戦時にその基本的なシステムが確立されたと言われています。
米軍は基本的に自国内での戦闘を想定しておらず、それは現在も変っていないのですが、彼らが考える戦争は常に海外でのものでした。そのためにはいかに迅速に大量の物資を運ぶかという点が重要で、戦時に建造されたリバティ型と呼ばれる戦時標準輸送船は2700隻以上にのぼりました。
そしてそれらの輸送船で港まで運ばれた物資は、あるときはC-47型輸送機(DC-3型旅客機の軍用型)で空輸され、またあるときはGMCの大型トラックで前線近くまで輸送されました。米軍の取る戦術はこれらの物資輸送ルートが確保されることが前提で、
日本もドイツも米軍との補給戦争に敗れたと言っても過言ではない のです。
ドイツが開戦初頭に実施した電撃戦(ブリッツ・クリーク)は補給を考えずに最初の装備のみで相手に反撃する間を与えずに一気に侵攻するという作戦で、長期戦となってしまった対ロシア戦では、結局補給が間に合わずに敗退を余儀なくされてしまいました。
日本に至ってはガダルカナルやビルマ戦線を例に取るまでもなく、全ての戦闘地域において戦略的な補給という考えなく部隊をただただ送り込み、米軍は日本海軍の軍艦よりも輸送船を重点的に攻撃して来るのに対して、その輸送船をまず守るという戦術はなく、敵の輸送船よりも戦闘艦艇を攻撃することのみに終始した結果、前線への補給が途絶え、全ての戦線において戦闘で戦死した兵隊よりも戦病死や餓死した兵士の方が多いという悲惨な結末でした。
「お国のために」戦った兵士と言えば全くその通りですが、その実態は日本軍の兵站に関する戦略の欠如から兵士を殺してしまったので、
日本の戦没兵士の半数以上は敵に殺されたのではなく、軍部の指導者に殺されたのが実際 なのです。
ハリウッドのデタラメ戦争映画で描かれていた、敵と対峙するタコツボの中の兵士にちゃんと手紙が届いたり、クリスマスに最前線で戦う兵士に七面鳥が配給されたりしたのは決してデタラメではなく、米軍の兵站機能の為せる技であり、実際にガダルカナルで日本軍が餓死寸前でトカゲやミミズを食べているときに、米軍兵士は野戦用キッチンで調理された料理を食べ、冷えたビールを飲んでアイスクリームを食べていたのです。
そしてその末端の物資輸送を支えたのがこのDUDGE 3/4ton Weapon Career 四輪駆動トラックで、Jeepに負けず劣らず米軍を戦勝に導いた貢献車なのです。Jeepがその軽量さと機動力を生かして活躍したことに対して、このトラックはもう少し大きいサイズで、ちょうど一個分隊(8名)が乗車して移動できるサイズでした。また四輪駆動であることから泥濘地での走破性も良く、幹線道路を外れて前線近くまで物資を運ぶには最適なサイズのトラックでした。
DUDGE Weapon Careerは大別するとWC51と呼ばれるフロントにウインチのないものと、WC52と呼ばれるウインチが装備されているものに分かれます。またその構造は様々なボディを架装することが可能であったことも特徴で、Jeepと大きく異なる汎用性を持っていました。
こちらはWC54と呼ばれる野戦救急車です。隣のJeepと比べるとその大きさが分かるかと思います。
これはWC57というCommand Carです。ジープよりも大型であるために居住性が良く、猛将と言われたパットン将軍が移動用に愛用したことからパットン・カーとも呼ばれています。
Weapon Careerと言うだけあってこのWC55型は37mm対戦車砲を装備したタイプです。これは標準タイプとして生産されたものですが、戦場で応急的に改造されたものは数多く、M2機関銃をハリネズミのように装備したりしたものも存在しています。
基本設計が優秀であったこのDUDGE Weapon Careerはそのラダーフレームを延長し、後輪を二軸として六輪駆動にしたタイプも生産されました。これはWC62、63型と呼ばれているのですが、基本設計がさらに積載量を増やす余力があったことが分かります。
物資は戦闘に必要な場所に行き渡ってこその物資で、輸送船、輸送機、大型トラックに加えてこうした小回りの効く小型の輸送トラックがあってこそ、最前線へ物資が補給できるので、これらの輸送手段を全て揃えていた米軍は、個々の戦闘で負けることはあっても総合的な戦争に勝つことができたのです。
そして、その戦場でのロジスティクスのノウハウは戦後に民間のロジスティクスに転用され、それが日本人の緻密さによって進化したのが現在の宅配便のシステムなのです。 私達が軍事と無関係だと思っている日常の様々なシステムが実は戦争によって生まれ、そして進歩してきたことは意外に知られていませんが、JeepやWeapon Careerはこうした日米の兵站戦略の差だけでなく、現在の宅配システムのことまで考えさせてくれるのです。
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震災以来、随分と街中で自衛隊の車両を見かけることが多くなったのではないでしょうか。以前は駐屯地がある地域では普通の光景であったかもしれませんが、被災地の支援に向かう車両が自衛隊に馴染みのない地域を通ることにより日常では殆ど自衛隊の車両を見たことのない人々にも随分と一般的になったのではと思います。
私が住んでいる地域(東京の城北地域)には近くに駐屯地が二箇所あるために、自衛隊の車両には日常から馴染みがあるのですが、最もポピュラーな車種がこの1/2tトラックと呼ばれるパジェロベースの汎用小型車両です。
本来のJeepとは似ても似つかない外観なのですが、それでも一般のヒトには小型軍用車両=ジープと呼ばれているようです。
それほどまで一般的な名称となったJeepなのですが、本来Jeepは1940年にアメリカ陸軍の公開仕様による緊急調達計画により誕生したクルマです。きっかけとなったのはドイツ軍がポーランドに侵攻する際に活躍していたキューベルワーゲンであったと言われています。
キューベルワーゲンは4駆ではなくRR方式だったのですが、その軽量故に泥濘地でも走行することができ、連絡、偵察、人員輸送に大活躍したのですが、当時のアメリカ陸軍にはそのような車両がありませんでした。
当時の陸軍の要求仕様は厳しく、四輪駆動で、タイヤ三本で100km走行できることや車載工具で全ての修理が可能であることに加えて、最も厳しい要求が車重が585kgというもので、戦地への輸送を考えた要求仕様でした。
これらの仕様の実現を検討したアメリカのフォードやGMといった大企業は軒並みギブアップしてしまうのですが、そんな中にあってチャレンジしたのはウイリス・オーバーランド社とアメリカン・バンタム社という中小メーカー2社という有様でした。しかも、ウイリス・オーバーランド社も途中でギブアップするという状態で、残されたアメリカン・バンタム社は車重以外の要求条件を何とかクリアし、試作車の製造にまで漕ぎ着けたのですが、陸軍はアメリカン・バンタム社の製造能力に危惧を抱き、それ以降の試作はアメリカン・バンタム社の設計をベースに、フォード、ウイリス・オーバーランドの2社を加えて三社での試作となりました。そして各社の試作車が実戦に投入され、最終的に勝ち残ったのがウイリス・オーバーランド社のもので、以降はこれをスタンダードモデルとして各社で大量生産され、結果として第二次大戦中に65万台以上が生産されることとなったのです。
連合軍を戦勝に導いた兵器の一つとして挙げられるのがこのJeepなのですが、この急造で設計されたJeepには大きな弱点がありました。それは防水問題で、アメリカが第二次世界大戦に参戦してイギリス軍とドイツ軍のロンメル軍団が激戦を繰り広げていた北アフリカ戦線に初めて上陸したアメリカ陸軍のJeepは防水が不十分で、その多くが海岸線で立ち往生してしまったと言われています。
その戦訓からアメリカ軍はアスベストグリースと耐熱セメントを用いた防水キットを開発し、以降のJeepには防水対策を施したのですが、それでも不十分でこのWillys MB型と呼ばれるタイプは防水問題に苦しめられることになります。
しかし、アメリカ軍あるところにJeepありと言われるほど重宝したのも事実で、あるときは解放のシンボルとして、またあるときは占領のシンボルとしてJeepの姿は多くの人たちの印象に残るだけでなく、その整備のし易さや使い勝手の良さから復興のための車両として活躍することになります。
それは「ロールアッププログラム」と名付けられたもので、戦場で全損と判断された車両を占領国に引渡し、修理をさせることにより、その車両を払い下げるというもので、このプログラムが最も機能したのが日本だったのです。戦後の日本はこうして米軍の車両を整備することにより自動車整備の技術を学ぶとともに、その設計技術をも吸収したのです。
第二次大戦が終了したために、米軍には多くの余剰のJeepがあり、防水問題を改良した新型車両開発のニーズはあったものの、とてもそれに着手できる財政状態ではなかったのですが、朝鮮戦争の勃発により急遽開発のゴーサインが出されることになります。そうして開発されたのがM38と呼ばれたJeepで、設計段階から完全防水仕様とされていました。
余程懲りたのかその防水対策は徹底されたもので、完成したM38はDeep Water Fording Kit(吸排気用シュノーケル)を取り付けるだけで、約1.9mまでの水中走行ができるほどになりました。
しかし、当然製造コストは上昇し、Willys MBの製造コストが当時700ドル前後($=360円で252,000円)!!であったことに対して、1台あたり約3倍の2,162ドルとなってしまい、米軍ジープの中で最も製造コストの高いジープとなりました。
M38は上陸作戦や渡河作戦で立ち往生した米軍の苦い経験を吹き飛ばす「究極の」Jeepだったのですが、結果としてその生産台数はたったの6万台にしか達しませんでした。
その理由は何と日本の整備能力で、朝鮮戦争の際に日本は前線から後送されてきたJeepを始めとする軍用車両を修理するだけでなく、日本人の勤勉さからより完璧な防水対策を施したために、新車のWillys MBよりも破損して日本で修理されて戻ってきたものの方が性能が良く、結果としてWillys MBで朝鮮戦争を乗り切ってしまったのです。
これほどまで活躍したJeepなのですが、連合国、特に米軍の戦闘における決定的な優位性はこうした個々の兵器の性能だけではなく、その用兵思想にあります。実は連合国の戦勝に貢献したのは兵站(補給)に関する考え方の差で、日本はその補給戦で負けたと言っても過言ではないのです。
次回はJeep以上に補給作戦に活躍したと言える米軍の車両についてお話したいと思います。
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多くの国民の理解と納得が得られないまま、多飯原発が再稼動されました。その決定のプロセスも、最終的に「総理判断・・・」という決定権者そのものも国民の完全な理解は得られていないのですから、後は日本人特有の現状是認という一種のアキラメに持ち込む戦法なのだろうと思うのですが、今回ばかりは多くの国民が国会前でデモを行って原発再稼動に異議を唱えています。
このデモも日本においては新しい民主運動の始まりを感じさせるもので、それまでの労働組合などの何らかの上部団体により「動員」されて行われていた大規模なデモに対して、ツイッターやフェイスブックなどでの呼びかけに応じて、「個々の意思で」参加しているこうした大規模なデモは60年安保以来ではないかと思います。しかも、安保闘争と大きく異なっているのはその世代層が幅広いことで、もし政治家がこのムーヴメントを正しく理解しなければ、「アラブの春」のように日本でも政権が転覆するような事態になるかも知れません。
このことだけでも、旧態依然とした日本の政治家が考える造反だの新党設立だのという世離れした政界の「一大事」より、
この国会前のデモのほうが遥かに「一大事」であることを認識しなければ、政治家全員が放逐されることになる のではと思います。
そんな中で、先日国会調査委員会による福島原発の事故報告書が提出されました。あまりに遅い・・・という点は置いておくにしても、この調査報告書の内容で
一番注目すべきなのはこの事故が天災ではなく、人災であると断じている ことです。
またこの報告書の中で当時の管首相の行動に対する批判が書かれていますが、理論上の批判は尤もだとしても、あの時に東電も原子力委員会も、本来首相に正確な情報と専門家としての助言をするべき人たちが誰一人として当事者能力がなかった中で、
首相が正確な状況分析をするために現場に出向いたことは、少なくとも管首相に国家元首としての当事者意識があったことを証明しており、そのことを日本人はもっと評価すべき だと思います。少なくとも冷静な海外のメディアは彼の行動を決して批判などせず、むしろ当事者である東電と原子力の専門家が事故に直面して何ら機能しなかったことこそが問題であると断じているのです。
日本人は台風や地震、果ては火山の噴火といった天災に晒されながら生活して来ました。ですので日本人の精神構造の中には天災は甘受するしかなく、過ぎたことを悔やむより生き残ったものが生活を再建すべく黙々と働く・・・という精神文化が醸成されてきました。それほどまで他国と比べると天災に晒されてきた日本人は「天災」と聞くと「じゃあ仕方ない」となってしまうのですが、一方でその天災に備えるために先人達が様々な知恵を絞って対策を立ててきたのも事実で、その先人の経験と知恵を上回る天災が襲ってきたときに人間の無力さを思い知ると同時に、自然に対する畏敬の念を思い起こさせてくれます。
しかしながら今回の福島原発の事故はその自然に対する畏敬の念の欠如ではなく、
人為的なミスや保身の結果引き起こされた事故 であることが明らかになるにつれ、そんな人間が原子力というエネルギーを安全に利用することなどできないのではないかという思いに至ります。
私を含め日本人の多くは、原子力発電をクリーンで安全なエネルギー源だと思い込まされて来ました。確かに日本のような資源輸入国にとって、不安定な原油供給の問題を考えなくて済む原子力発電は国策としても魅力でしたし、地球温暖化対策としても原子力発電はクリーンエネルギーだと言われればその通りでしょう。
しかし、私達は今回の事故まで、原子力発電所がこれほどまで適当でいい加減で無責任に稼動されていることを知りませんでした。
100歩譲って原子力発電は「現在の」日本にとっては止むを得ないエネルギー源だとしても、その適当でいい加減で無責任な稼動システムが100%改善されないままに、「ほら、他に手が無いんだから仕方ないでしょう」と再稼動させることには全く理解も納得もできないのです。
現在の状況での原発再稼動は、飲酒運転と同じで、事故を起こしたときに取り返しがつかなくなることを承知しながら、単に不便だから・・・という理由でハンドルを握るようなもので、それに同乗しなければならない国民に対して、「じゃあ雨の中歩いて帰る?」、「事故を起こさないうように気をつけて運転するから・・・」と言って説得しているように思えます。そして、最大の欺瞞はこの例えと同様に、飲酒運転のクルマに乗るか、歩いて帰るかという二者択一の選択を迫っていることで、運転代行を頼んだり飲酒していない友達を呼ぶといった
それ以外の選択肢を意識的に排除している ことにあります。
今回の再稼動の決定に際しては、夏場の電力不足が最大の要因であったろうと思います。火力発電のコスト高や地球温暖化への影響はそれほど大きく議論されませんでした。と言うことは、「電気が足りない」というただ一点の理由で、原子力発電所の存続が容認されたということになるのですが、ここに大きな欺瞞があると思います。
電力不足を解消する手段は原子力発電だけではない はずなのですが、少なくともそれらの代替案が真剣に議論されたことも試みられた形跡もなく、ただいたずらに時間だけが過ぎ、結果として時間切れとなり原子力発電以外に手段がなくなったので、最初から原子力発電しかなかったのではないと思うのです。
実際に電力が深刻に不足するのは夏場の昼間だけで、それ以外の時間帯は余剰電力があるのはご存知の通りです。
残念ながら、電気は保管しておくことが非常に難しいために、その電力需要に応じて発電所の稼動率を調整しているのですが、その需要のピーク時に発電所がフル稼働しても間に合わないから電力不足だと言っているので、つまり
現在の発電設備全体は常にピーク時を想定して設置されており、それ以外の時には止まっている(遊んでいる) ということなのです。
では、本当に電気は蓄めておくことができないのでしょうか。
例えば水力発電で揚水発電という方式があります。これはダムから発電のために流した水を、夜間の余剰電力を使って再度ダムに汲み上げる方式です。つまり電気を蓄めておけない代わりに、発電の素となる水を貯めるという方式なのですが、明日から・・・というわけにはいかず、ダムの環境要因や設備工事などを考えると一朝一夕にはできませんし、仮にできたとしても発電タービンの能力以上には発電できないことには変わりありません。
それでは電力供給の総量を増やすための方法は、原子力発電に限らずその時点で何らかの方法で発電する以外に本当にないのでしょうか。
実際に余力のある夜間などの余剰電力をピーク時に利用する方法はあるのではと思います。
ご存知のように昨今のEVの進歩を見れば日本のバッテリー技術は世界最高レベルにあります。日産リーフ一台の蓄電量で普通の家庭の2日分の電力が賄える・・・という宣伝が本当だとすると、各町内に小規模の蓄電所を設置して夜間に蓄電しておき、そこから昼間のピーク時の不足分を供給することも可能なはずだと思います。
実際に蓄電効率が悪くても何もないよりも遥かにマシでしょうし、大量生産することによりバッテリーのコストダウンも可能だと思います。しかもこのプロジェクトによりさらにバッテリー技術が進歩し、その生産から設置までの内需も拡大することになるでしょう。
さらに、発送電を分離することにより再生可能資源(ソーラーや風力など)で発電した電力もそうして各地域で蓄電しておくことができれば、単に一時凌ぎの設備ではなく長期的にも発電所の負荷を減らすことができると思うのです。
昔は各町内に防火水槽があり、そこに雨水を溜めて火事の際の消火に使っていましたし、それ以外にも道路の水撒きに使っていた記憶があるのですが、町内蓄電はまさにその発想です。
その設置コストの問題も原子力発電所の設置コストや火力発電所の新設コストと比較すれば莫大とは言えないのではないかと思います。何より、
原子力発電所がひとたび事故を起こしたときの国民の蒙る負担を考えれば、既存の原子力発電所に再稼動のための安全対策コストを注ぎ込むよりも遥かに合理的 だと思います。加えて言うなら使用済核燃料棒の最終処分方法すら現在の日本にはないのですから、今後発生するそれらのコストも加えれば、今まで言われてきた原子力発電のコストが安いなどとは誰も信じることなぞできないでしょう。
さらに日本の原子力発電所には自然災害以外にもリスクがあります。それは北朝鮮によるテロに対するリスクで、日本海側の海岸沿いに設置されている原子力発電所は、せいぜい一個分隊(8名)程度の工作員で簡単に占拠し破壊することが可能でしょう。冬場の大陸高気圧により強い北風が吹く時期に、原子力発電所の冷却系統が破壊されメルトダウンすればどうなるかは福島原発の事故を見れば容易に想像できると思います。
原子力発電以外の代替案がどんなに荒唐無稽なアイディアだったとしても、またその実現のためには様々な障害があったとしても、そういった原子力以外の代替案を真剣に検討すらせずに(検討した結果を公表せずに)、一直線に原子力発電の再開というのは単なる結論誘導であり、何か理由が別のところにあるのではと思ってしまいます。 確かに、原子力発電はその用地買収から地元の振興策まで含めると大きな金が動く事業ですし、そこに様々な利権が絡むのは容易に想像ができます。それらの原子力利権団体が、あれほどの事故があったにも関わらず、何とかして原発を再稼動させようとする背景にはこれらの利権が大きく絡んでいます。それは単に国内の利権だけではなく、海外での利権も含まれており、将来的に原子力発電所は無くしますと言っている日本は、その原子力発電プラントを今現在も輸出しているのです。
今、世界は日本の福島原発の事故の推移だけでなく、日本の原発政策の行方も見守っています。
日本の領土内で発見されたシェールガスやメタンハイドレートもこれからの日本のエネルギー政策に大きく影響するでしょう。
しかし、今回の原発再稼動に至る経緯を見る限り、また、
今後も現在の利権体質がある限り、日本のエネルギー政策は真に国民全体の利益となるような合理的な判断をされるとは思えません。 そしてその利権による判断にNoと言えるのは民意だけであり、政治家も自らが失業するリスクを冒してまで利権にはしがみつかないでしょう。
国会前のデモは国民が政治家の美辞麗句にはもはや騙されず、もっともらしい選択肢にも疑問を持つことができることを表しています。
原発の再稼動にYesであってもNoであっても、その判断はあらゆる選択肢が国民に提示された上での判断であるべきで、
国民は単に原発再稼動に対してではなく、この意思決定のプロセスそのものにNoと言っている ことを全ての政治家は良く考えるべきだと思います。
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テーマ:環境・資源・エネルギー - ジャンル:政治・経済
柔らかいタッチで全体の雰囲気で魅せる作品がこの安藤俊彦氏の一連の作品でした。自分の愛車をこんなタッチで描かれたものをさりげなくガレージに飾ってみたいと思わせてくれました。
テクニカルドローイングの第一人者である大内誠氏の作品です。大内氏の作品はCADなどを使って描かれた「図面」のような透視画ではなく、アートとしての作者独自の作風を持ったものであることが、こうして並べて見ると良く分かりました。
会場で自分が先日まで格闘?していた田宮模型の1/24 ALFAROMEO Giulia Sprint GTAを見つけました。
作者はペーパークラフトやイラストで有名な溝呂木陽氏で、
氏のブログ は折に触れ参考にさせていただいていましたので、こうして実物を見ることができたのは本当に幸運でした。
パイピングなどの追加加工はされていなかったのですが、実はこうした「素組み」で作者の個性を出すのが一番難しいのです。プロのフィニッシャーの方の作品はその基本工作や塗装のクオリティが高く、作品の存在感が際立っていました。フルスクラッチと呼ばれる全く一から造り上げられたモデルであればともかく、市販されているプラモデルの完成品がアートであるのか・・・という疑問を持たれる方もいらしゃるかも知れません。しかし、プラモデルを一度でも真剣に完成させたことがある方であれば、最終的に全体として作者らしい雰囲気を持つ「作品」と、組み上げただけの「完成品」に明らかに差があることはお分かりいただけるのではないかと思います。
私自身のものは残念ながらただの「完成品」でしかなく、「作品」というアートのレベルには達していないと思います。まだまだ精進が必要なことがこの溝呂木氏のモデルを見て良く分かりました。
プラモデルと言えば、ボックスアートをご存知ではないかと思います。所謂「箱絵」というプラモデルの表に書かれている絵のことなのですが、余程家の中に絵画が溢れていたご家庭であればともかく、私のような一般庶民の子にとって初めて触れるアートがこのプラモデルのボックスアートでした。
現在でこそ、ボックスアートはアートとして認知されていますが、私の子供の頃はこれを芸術作品という認識はなかったと思います。しかし、インパクトという意味においては子供の私にとってはプラモデルの箱絵のほうがダ・ヴィンチのモナリザよりも遥かに大きかったのです。何故なら、モナリザは見るだけですが、プラモデルは自らの当時の全財産(と言っても良い大金)を投じて購入する価値があるかどうかを見極めるための重要な情報だったからなのです。そういった意味では子供一人一人が画商のバイヤーであったと言っても過言ではないでしょう。
この展示会でも何点かこのプラモデルのボックスアートの原画が展示されていました。
寺田敬氏による田宮模型HENSCHEL123のボックスアートです。田宮模型と言えばホワイトバックの箱絵が有名ですが、こうして背景も描かれたボックスアートはやはりホワイトバックよりも好感が持てます。
このホワイトバックには理由があり、昔、アメリカの消費者団体が、プラモデルの箱絵にキットに入っていない物が描かれていると、購入する子供がそれらもキットに入っていると勘違いするという無茶苦茶なクレームをつけたのです。最初にその理由を知った子供の私は、「アホか・・・」と思ったのですが、結果として素晴らしいボックスアートは次々と無くなり、単にホワイトバックにキットの完成品の写真が載っているだけの実につまらない箱絵になってしまったのです。
その悪条件?を跳ね返したのが田宮模型で、ホワイトバックで描かれた戦車のボックスアートは田宮模型のアイデンティティとなり、そのアート作品は見るものに背景を想像させる効果があり、現在は他のメーカーもマネをするほどとなっています。現在の田宮模型はAFVモデル以外はこうして背景も描かれたものとなっていますが、それでも背景は自然物だけという「お約束」はあるようです。
こちらは同氏によるハセガワの二式戦鐘馗で、田宮模型のような制約はなく、B-29の編隊を迎撃する鐘馗の姿が見事に描かれています。確かに背景が自然物のみというのも分かりますが、やはりそのキットのモデルが一番活躍しているシーンが描かれている方が見る者を感動させてくれます。
こちらはホワイトバックに描かれた川上恭弘氏による田宮模型のMINOLTA TOYOTAです。
これはこれで確かに「味」はあるのですが、個人的にはボックスアートはやはり一つのシーンを描き出して欲しいと思ってしまいます。
余談ですが、私が子供の頃に一番ボックスアートが優れていたのがアメリカのREVELL社のものでした。特に1/32スケールのものは箱そのものが大きかったこともあり、そのインパクトは子供にとってはとてつもなく大きいものがありました。
こちらは今でも強く記憶に残っている1/32スケールのP-40Eです。
日本が占領していたアリューシャン列島上空で、P-40Eの特徴を生かして上空から一撃離脱で損害を与え、被弾してアリューシャンの火山島に向かって退避する二式水戦に対して、再度反転して攻撃をしかけようとするP-40Eが見事に描かれています。
本来ならば空戦をする際にはドロップタンクを投下するものですが、相手がゲタバキ機(フロートがある水上機)であることと、洋上での戦闘故に帰還時の燃料を気にしたのか、P-40Eはドロップタンクを着けたまま攻撃しています。
P-40Eのパイロットの視線は煙を吐きながら退避する二式水戦に向けられており、日本人の私はどうか逃げ切って欲しいという気持ちにさせられます。
当時の国産のプラモデルは箱絵と中味がかけ離れているものも多かったのですが、REVELL社のものはキットそのものも素晴らしい出来栄えで、何度も模型屋に足を運んでは、この箱を眺めては「造った気」になっていたものです。
一度、機嫌の良い父親を模型屋に連れ出して買ってもらおうとしたのですが、父親はこの箱絵をアートして冷静に見ることができなかったようで、「このキットはダメだ!」と機嫌が悪くなってしまったことを懐かしく憶えています(苦笑)。
ちなみにこの二式水戦の色はその後も物議を呼び、実際にアメリカのパイロットの目撃証言があるものの日本側にはその記録がなく、現在もこのような塗色が本当にあったのか、単なる光線の加減でこのように見えたのかは定かではありません。
脱線してしまいましたが、再びAAFの展示会に戻りましょう。
クルマを描いたアートとして気に入ったのがこの渡邊アキラ氏の一連の作品でした。クルマの描写が実に的確であることに加えて、その背景との必然性というかバランスが優れており、このクルマはここに停めて欲しい・・・と思う場所が描かれていました。
プラモデルの箱絵であれ、雑誌の表紙であれ、こうした商業イラストはアートとしてはまだまだ世間に認めてもらってはいないのかも知れません。
しかし、こうしてギャラリーで展示会を開催したりすることにより一般の方の目に触れる機会が増えると、これらの作品が一般の方に「芸術」として認知している風景画や抽象画と同様に、作者の感性が描かれた対象を通じて映し出された一つの芸術作品として認知されるのではないかと思います。
第二回、第三回・・・とAAFの展示会が続いていくことを期待しています。
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クルマ好きの方であれば、自動車雑誌を講読されている方も多いのではと思います。それらの表紙はそれぞれの雑誌の「顔」としてイメージが差別化されており、ある雑誌は美しい写真を使っていたり、ある雑誌は素晴らしいイラストを継続して使っています。
それらのイラストは単に描写する対象物がクルマであるというだけだと思っていたのですが、「オートモビルアート」という一つのジャンルを形成していることを今回の展示会で初めて知りました。しかもそのオートモビルアートは単なるイラストレーションや絵画だけではなく、プラモデルのような立体造型なども含まれており、クルマを題材にしたアート全般を指しているということをこの展示会で初めて知りました。
普段はめったに美術館や画廊などには足を運ばないのですが、オートモビル・アート連盟の第一回作品展が市ヶ谷の
山脇ギャラリー で開かれることを知り、出かけてみることにしました。
明るいギャラリーの中に一歩足を踏み入れると、そこはどこかで見たことのある作風のイラストが展示してありました。一番驚いたのがその原画のサイズで、正直もっと大きいものだと思っていたのですが、一体どうやって描いたのか・・・と思うほどそのサイズは雑誌などの表紙のサイズに近いものでした。
CAR & DRIVER誌の表紙でお馴染みの岡本三紀夫氏のイラストです。アクリル絵具を使ったイラストは透明感があり、ボディの光の反射を効果的に使ってそのクルマの特徴を描き出しています。それにしても確かCAR & DRIVER誌は隔週で発行されていたと思うのですが、永年に亘り2週間に一度作品を仕上げるというペースは相当に厳しいと思います。
展示物の中で一番大きな作品はこのBUGATTIとFERRARI DAYTONAの二点で、特にDAYTONAのノーズの映り込みの表現は圧巻でした。
お目当ての一つは畔蒜幸雄氏のモデル展示でした。氏は昔から模型雑誌にその作例を掲載されていた方で、私も昔から「いつかこんな風に造れれば・・・」と憧れていたモデルフィニッシャーの方です。
氏が最も得意としているのがアメリカ車で、またそのベースキットが旧いジョーハンやAMTのキットですので、そのフィニッシュまでには幾多の技術が詰め込まれています。
意外に知られていないのですが、アメリカにおけるこうした自動車のプラモデルキットの起源はディーラー向けに製作されたディスプレイ用のモデルで、もともとは販売促進用に製作された非売品でした。それが市販されるようになって一般的になったのですが、当時のモデルはプラスチックの材質も現在とはかけ離れており、このように造り上げるためには相当な技術を必要とします。しかし、氏の作品はむしろその超絶な技術を感じさせず、「当たり前のように」一つのモデルとして表現されています。
それがどれだけ凄いことであるかは、同時に展示してあったベースキットを見れば良く分かります。
こちらはプラモデルとして市販されていたAMT製のSHELBY COBRA 289です。このキットは私も持っていたのですが、こんなにすんなりと完成させることはできないシロモノです。
そしてノーマークで驚かされたのが篠崎均氏のペーパークラフトで、以前にも雑誌などで紹介されたのですが、私自身は昔の雑誌の付録レベルね・・・と殆ど気にかけてはいませんでした。
ペーパークラフトの面白さはこうして二次元で印刷された紙のパーツを組み上げて三次元の立体物を作るということで、すでに印刷してあるのですから塗装する手間が要らないことに対して、紙の特性を考えながら折ったりクセをつけたりして仕上げなければならないという頭脳作業を要求し、子供の知育ツールとしては実に優れていると思うのですが、大人にはなぁ・・・と勝手に思い込んでいたのです。
ところが、この写真の紙パーツが、
こうなることを見て、これは子供のオモチャではないことを知りました。最早プラモデルに負けない再現度であることはご覧いただければ分かると思います。
こちらは
EPSONのサイトでダウンロード できるエプソン・ナカジマレーシングの各マシンですが、プリンターや用紙といった機材や材料を必要とするとは言え、タダでダウンロードできるのは凄いことだと思います。
プラモデルは材料を用意しないといけないし、塗装が面倒・・・という方はペーパークラフトにチャレンジして見てはいかがでしょうか。私もモデル製作の合間にチャレンジして見ようと思っています。
コンピュータグラフィックを使った表現として面白かったのがこちらの作品群でした。満川秀男氏の作品はディスプレイ上では3DCGとして表現でき、様々な角度から対象を見ることができます。
同様のジャンルでテクニカルドローイングというスケルトン画がありますが、前者がその名前の通り、クルマの内部構造を見せるための作品であることに対して、こちらは背景を含めてアート作品として製作されているのは新しいアイディアだと思いました。
正統派?の作品が斉藤寿氏の作品でした。個人的にこのタッチは好きですので、しばらく見入ってしまいました。
一口にオートモビル・アートと言っても様々なアプローチと作者の作風があることが分かります。次回も引き続き展示会場の模様と私が気に入った作品をご紹介したいと思います。
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「スカイライン」と聞いて想いだすのは三代目のC10型のサーキットでの活躍・・・という方は相当の年輩でしょうし、30代以上の方であれば八代目R32型の活躍ではないかと思います。
日本の自動車史において、これほどまでに市販モデルとレーシングモデルの活躍が連綿と結びついているクルマはないのではと思います。
今年はそのスカイライン生誕55周年とのことで、各地で様々なイベントがあるようですが、今回の会場ではその歴代のスカイラインのモデルを展示していました。そしてそれはレーシングカーではなく一般乗用車として見たときにも自動車の発展と日本の経済成長との縮図を見ることができる展示でした。
このクルマがスカイラインの起源です。
1957年に富士精密工業(後のプリンス自動車)によって発売されたこのALSI型からスカイラインの歴史は始まりました。外観はトヨペット・クラウンと同様に当時のアメリカ車のデザインの影響を受けていることが分かります。
一方で驚くべきことにその足回りは最先端で、フロントはダブルウイッシュボーン、リアはド・ディオンアクスルと凝ったレイアウトを採用しており、このコストを重視しない企業体質が後にプリンス自動車が日産に吸収されてしまう原因の一つとなってしまうのは皮肉なことなのですが、一方で、だからこそスカイラインが日本の自動車史に名前を残すことができたのだと思います。さしずめ、日本版アルファ・ロメオがプリンス自動車なのかも知れません。
さらにプリンス自動車の挑戦は続きます。それは1960年トリノショーで発表されたスカイライン・スポーツで、そのボディデザインはミケロッティが手がけたものでした。
それまでの市販モデルがアメリカ車のデザインを引きずっていたことに対して、当時は新しいデザイントレンドを模索する日本のメーカーがこぞってイタリアのカリッェリアにデザインを依頼していたのですが、いきなり極東の見知らぬメーカーがトリノショーにこのクルマを展示したのですから、さぞかしヨーロッパの人たちはビックリしただろうと思います。
もちろんミケロッティの薦めもあったのだろうと思いますが、これが単なるデザインスタディに終わらないところがプリンス自動車の無謀なところで、1962年にはこのデザインのクーペとコンバーチブルを発売してしまいます。
もちろんプリンス自動車もこのスカイライン・スポーツが売れるとは思っておらず、一種のイメージリーダー的な位置づけだったのだろうと思いますが、数台のショーモデルを造ることと、例え少量生産であっても市販することは全く別物で、大幅な赤字であったろうことは想像に難くありません。
そして現実的な量産モデルのスカイラインはフルモデルチェンジされこのS5型となります。1963年に発表されたこのスカイラインは上級モデルをグロリアに任せて、小型(1500cc)ファミリーセダンに特化したモデルとして発売されます。
しかし、1964年に日本グランプリに出場するためにフロントを無理やり延長して、グロリア用の直列6気筒エンジンを搭載したホモロゲーション用に100台のみが製作されたS54型の活躍がその後のスカイラインの運命を決定付けることになります。
それはどうみてもボディ全体のバランスを崩していたのですが、かえってそれが格好良く見え、そしてレースの活躍がスカイライン全体のスポーティイメージを根付かせることになります。
しかし、プリンス自動車の利益体質は改善されずに、自動車業界の国内での不毛な競争を避け、輸出産業として発展させたいと考える国策も加わり、プリンス自動車は1966年に日産自動車に吸収合併されることになります。
この辺りの合併の経緯がその後の日産社内でのプリンス出身者との確執を生むことになるのですが、方や吸収される側のプリンスにして見れば、会社経営が傾いて倒産寸前になったワケでもなく、技術的に他社に遅れをとっていたワケでもない(むしろ優れていた)自分達が日産に吸収合併されるのは、ひとえに会社規模が小さかったことと、国策により決められたことであり、心情的には「仕方がないから行ってやる」的な感情を持っていたことに対して、受け入れる側の日産にとっては、「拾ってやった」という感情があり、その双方の感情のもつれがその後の日産の社内で延々と引きずられることになってしまいます。
倒産寸前に国営化され、それも限界が来てフィアットに「拾ってもらった」アルファ・ロメオですらフィアットに対して技術的な優越感は持ち続けていたのですから、プリンス自動車の、特にエンジニアにとっては日産のエンジニアはシロート集団に写ったとしても仕方なかったでしょう。
そんな中の1968年に三代目となるC10型のスカイラインは日産スカイラインとして発売されます。もちろん開発はプリンス自動車時代から行っており、そのプロジェクトをそのままプリンスのスタッフが担当する形で開発されたのがこのC10型で、エンジンも旧プリンス製のG15型4気筒エンジンを搭載していました。
しかし、少し遅れて発表された先代と同様に6気筒エンジンを搭載しているGTモデルは、初めて日産製のL20型エンジンが搭載され、プリンス-日産の混血となりました。そして誰もが認めるGT-Rの活躍に繋がって行くことになるのです。
あまりにGT-Rの印象が強く、スカイラインのスポーツイメージを形成してしまったのがこの三代目のスカイラインなのですが、それは両刃の剣となってしまいます。レースでの活躍を市販車の広告宣伝に結び付けて販売を伸ばすというやり方は多くの自動車メーカーが採用してきた手法ではありますが、一方で活躍すればするほどモデルチェンジが難しくなり、次期モデルもそのイメージからモータースポーツから引けなくなってしまうのは、後のLANCIA Deltaの事例でも明らかです。
しかし、日産は見事にこのC10型を引きずることなく、通常ルーティンの4年という販売期間でフルモデルチェンジを行います。それは単に会社の英断ではなく、プリンスの設計思想が色濃く残るこのC10型にはやく退いて欲しかったのではないかと思われるのですが、こうして「惜しまれつつ」C10型の販売は終了することとなります。
こうして四代目のスカイライン(C110型)が1972年に発表されます。その後のスカイラインのデザインアイコンとなるサイドのサーフィンラインと呼ばれる窪みは、この四代目のスカイラインのデザインで初めて意識されてデザインモチーフとされました。そして通常のモデルは4気筒エンジンを搭載し、GTは6気筒エンジンを搭載するという「ルール」が踏襲されるのですが、このモデルからようやくシャーシーは日産ローレルと共通化され、1975年のマイナーチェンジ以降はそれまでのプリンス系エンジンのG16、18型から日産製のL型エンジンに変更されることにより、日産はようやくスカイラインをプリンスから「手に入れる」ことに成功しました。
一方で、この四代目により「スカイラインの呪縛」が完成されてしまいました。その呪縛とは、スカイラインたるもの・・・というユーザーイメージで、ボディサイドのサーフィンライン、GTは6気筒エンジン、GT-Rはレースには出場し勝たなければならないというもので、それが後に日産を苦しめることとなってしまうのです。
五代目のスカイライン(C210型)も通常のモデルチェンジサイクルに従って1977年に発表されましたが、スカイラインだけでなく自動車は排気ガス規制という新たな技術開発テーマに直面します。
スポーティイメージが強いスカイラインのようなモデルにとってこの排気ガス規制をクリアする高出力エンジンがないことは痛手で、スカイラインもGTのスポーティイメージ確保に苦慮します。
結果として日産が選択したのはターボチャージャーで、モデルチェンジには間に合わなかったものの、マイナーチェンジとしてターボチャージャーを搭載したモデルを追加してその面目を保つことに成功しました。しかし、当時の日本車全般に言えたのですが、この排気ガス規制によるエンジンの出力ダウンは避けられず、総じてクルマは「走らなく」なってしまいます。
そしてファンが待ち望んでいたGT-Rというモデルは封印されることになります。
1981年にモデルチェンジされた六代目(R30型)もまだ排気ガス規制のマイナスを跳ね返せずにいました。
スカイラインのGT系が搭載するL型6気筒エンジンはターボチャージャーを搭載したとしても性能的には限界に来ており、市販車として排気ガス規制をクリアしながらこれ以上の出力アップは難しくなっていました。
そこで搭載された新たに開発されたFJ20型4気筒エンジンはターボチャージャーを装備してようやく6気筒のL型エンジンを凌ぐパフォーマンスを獲得するのですが、GTは6気筒エンジンというルールを破ったことになり、その「最強の」スカイラインもGT-Rとは呼べず、GT-RSという何とも歯切れの悪いネーミングを与えられることになりました。
しかし、一方で日本の各メーカーがマイナスイメージを危惧して遠ざかっていたレースに復帰することにより、スカイラインの定義?の一つは満たすことができたのがこのR30型の功績でした。
それは1982年に当時のグループ5規定に合わせたレーシングカー「スカイライン スーパーシルエット」を投入したことで、ハードトップ2000RS(KDR30型)をベースに、車体の一部をパイプフレームとするノバエンジニアリング製のシャシーに、大型のフロントスポイラー、およびリアウイングを備えるムーンクラフト製のカウルをまとい、「RS」のイメージカラーである赤/黒の2トーンカラーで登場させました。
搭載するエンジンは新型のFJ20ではなく、サファリラリーなどで使用された「バイオレット」に搭載されていた直列4気筒DOHC LZ20B型にエアリサーチ製T05Bターボチャージャー、およびルーカス製メカニカルインジェクションシステムを組合わせ、 570ps/7600rpm、55kgm/6400rpmというパワーを絞り出してはいましたが、それは市販モデルにフィードバックされることのないレース用のスペシャルエンジンに過ぎませんでした。
ともあれ、ユーザーはこのスカイラインのレース復帰を歓迎し、スーパーシルエットというカテゴリーは日本でのツーリングカーレース人気再燃のきっかけとなりました。
そして七代目のスカイライン(R31型)が1985年に発売されるのですが、最大のポイントはようやく新世代の6気筒エンジンが搭載されたことで、GT系に新たにRB20型の直列6気筒エンジンが搭載されました。
またこの時代は様々な電子デバイスが試された時代で、このR31型には日産が開発した4輪独立操舵システムであるHICASを搭載していたことも特徴の一つです。
レース用では1987年にグループAホモロゲーション用に800台が販売されたGTS-RがGT-Rとしての資格をようやく満たすモデルであり、ファンはGT-Rと呼んで欲しい・・・と思っていたそうなのですが、そのインターTECレースでの活躍にも関わらず、まだGT-Rはお預けとなってしまいました。
あとは皆さんご存知の通り1989年に発売された八代目スカイライン(R32型)においてGT-Rは見事に復活を遂げ、C10型スカイラインの歴史を塗り替え、GT-Rと言えばR32と呼ばれるようになりました。
長らくお伝えして来ましたが、ノスタルジックカーショーのようなイベントは単に「懐かしい~」と当時の憧れだったクルマや自分の愛車に逢いに行くのも良し。こうして自動車の歴史をその人なりに感じるのも良し。そして誰か解説員を仕立ててその解説員の拘りに耳を傾けるも良しと、様々な楽しみ方ができるイベントだと思います。
機会があれば出かけて見てはいかがでしょうか。今回は我慢しましたがマーケットだけでも抜け出せなくなるかも知れませんよ。
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テーマ:イベント - ジャンル:車・バイク