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走ってナンボ

アルファ・ロメオを始めとする「ちょっと旧いイタ車」を一生懸命維持する中での天国と地獄をご紹介します。

Quo Vadis

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恐らく、この記事が今年最後のブログになります。もっと夢一杯のネタで今年を締めくくりたかったのですが、私たちの大好きな自動車にとって今年ほど厳しい年はなかったのではないかと思います。
そして自動車業界も私たちユーザーも、自動車の明るい未来を思い描けずに年を越そうとしています。
世界をリードしてきたアメリカの自動車需要は落ち込み、それに依存していた世界中のメーカーは軒並み減産に追い込まれ、その景気悪化の影響で急成長していた発展途上国の需要まで冷え込むことにより、ビッグ3と呼ばれたアメリカの自動車メーカーだけでなく、世界中の全ての自動車メーカーが経営危機の渦中にいます。

乗り物の開発は人間の本能に根ざしたものでした。運動能力に制限がある二足歩行を選んだ瞬間から、人類はその運動能力をカバーするために持てる知力を尽くしてきました。その結果、宇宙や深海にまで人類は行けるようになったのですが、その最も身近な乗り物が自動車だと思います。
自動車のおかげで、人類は地球上のどんな動物より速く移動することが可能になり、今や自動車は私たちの生活になくてはならないものとなりました。

しかし、自動車には輸送や移動といった本来の目的とは違った魅力があるのです。それは自動車が公共財ではなく、個人の持ち物になったときに、スピードやデザイン、そしてドライブフィールといった個人個人の満足を満たすものとなったのです。そして自動車はあるときは権力の象徴となり、また富の象徴となり、他人との差別化の道具として存在意義を持ち始めました。それは自動車本来の目的であった移動、輸送といった目的とは少し異なっていましたが、それ故に自動車は更に進化し、多くのメーカーと車種を生み出し、ますます普及して行ったのです。

私たちは幸いなことに、自動車が一般化する過程を共に過ごして来ました。私たちよりもっと前の世代にとっては自動車は「夢」だったでしょう。私が子供の頃は自動車は「憧れ」でした。そして、私たちが自動車を運転できる年代に達した時、自動車は「現実」となりました。そして現在、自動車は「道具」となり、加えて単なる選択肢の一つにまでなってしまいました。
道具であれば、その機能さえ満たされていればそれ以上のものは必要ありません。使えるうちは使い、使えなくなったときに買い替えれば良いのです。ハサミを例にして考えて見れば、ハサミがない家はないと思いますが、5年に一度ハサミを買いかえるヒトはいないでしょう。

私は道具となった時点で、自動車の今までの使命は終わったのではないかと考えています。考えてみれば一つの道具の生産に世界中のこれだけの資本が投下され、これほどまで多くの人が関わり、そしてこれほどまでの種類が存在していることが異常なのではないかと思うのです。
これからの未来を担う若者にとって、今やクルマは携帯電話やi-Podと同等の、若しくはそれ以下のアイテムになってしまいました。

私たちの学生時代は寄ればクルマの話をしていました。誰が何に乗り換えた・・・だの、今度の新型車はスゴイだの、話題はいつもクルマでした。そしてクルマを持っていることや運転が上手いことが女性にモテる最低条件でもありました。
しかし、現代の若者たちは、移動の手段であればi-Podで音楽を聴いたり、携帯電話でメールしながら電車に乗ったほうが効率的だと考えているようですし、最新の携帯電話を持っているほうが、女性との話題になるようです。そしてクルマがどうしても必要ならば、レンタカーを借りれば良いと考える若者が大多数なのですから、メーカーがどんなに一生懸命新型車を開発しても、若者の眼中に入らないのは当然なのでしょう。
「これなら欲しい」というクルマは、その他の魅力的な道具の中で取捨選択され、「それでもいらない」と考えられてしまうのが現実なのです。

環境に優しいことや、美しいデザイン、そして素晴らしい走行性能も、もはや再び車を「憧れ」に引き戻すことはできないのかも知れません。
だとすれば、こういったクルマの魅力は最早、大衆の共通観念ではなく、一部のクルマ好きのための嗜好品のようなものになって行くのではないかと思うのです。
事実、大量生産をしている自動車メーカーは軒並み販売台数が落ち込み、経営危機に陥っているにも関わらず、少量生産の個性的な自動車メーカーは相変わらずバックオーダーを抱えていると言われているのです。

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「Quo Vadis」とはイエス・キリストの弟子であった聖ペトロの言葉で、「どこへ行くのですか?」という意味です。

イエス・キリストが十字架の死を遂げた後の、西暦67年のローマではローマ皇帝ネロが暴君として権威を振るっていました。そのときペトロは布教のためローマにいましたが、「ローマの大火」の犯人の汚名を着せられた当時のキリスト教徒たちは大変な迫害を受けました。
そのリーダーと目されたペトロは身の危険を感じ、ローマから逃げようとしますが、ローマを出る門の前で復活したイエス・キリストに出会うのです。
驚いたペトロはイエス・キリストに尋ねます。

「主よ、どこへ行かれるのですか(Domine quo vadis)」
「私はあなたのためにふたたび十字架にかかりに行くのだ。」


Domine quo vadis・・・

実はペトロはイエスが十字架の死を遂げる前夜の「最後の晩餐」においても同じ言葉をイエスに投げかけていました。

ペトロがイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのですか。」
イエスが答えられた。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」
ペトロは言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」
イエスは答えられた。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」
(ヨハネによる福音書 13:36-38)

そして実際にペトロはイエスを三度「知らない」と言ってしまいます。イエスを金貨で売り渡したイスカリオテのユダと自分が何ほども変わらなかったことをペトロは悔いていました。そしてそのことが心に針のようにずっと突き刺さっていたにも関わらず、それでも心の弱さからあの時と同じことを繰り返そうとしていたのです。そしてそのことを深く恥じたペトロは今逃げてきた道を引き返したのでした。
今度は二度とイエスを裏切ることのないよう、自らが十字架にかかるために・・・。

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Quo Vadis・・・

これから自動車はどこへ行くのでしょう。それは十字架への道なのか、それとも新たな復活への道なのでしょうか…

今年最後のブログがナンだか暗い話題になってしまい、お読みいただいている皆さんには申し訳ないのですが、私自身は自動車の未来を信じています。もちろん私が思い描く未来ではないかも知れませんが、自動車は人類が手に入れた個人の移動手段として、必ず私たちの身近にあり続けるだろうと思っています。
そして、こんな厳しい時代だからこそ、そのクルマを使って趣味の世界では精一杯遊んで行こうと考えています。

今年もこんな拙いブログをご愛読くださり本当にありがとうございました。来年も皆様と皆様の愛車が健やかでありますようお祈りしています。

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オイル管理の重要性

緑スパはオイル漏れを止めるべく、ヘッドオーバーホールを行っていますが、実際にエンジンを開けてみるとその状態は、オイル管理が悪いとエンジン内部はどうなるか・・・という見本のようになっていました。
今回は主治医が撮影してくれた写真でその状態をご紹介したいと思います。

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エンジンオイルはエンジン内部の駆動部の潤滑とシールを主目的としていますが、副次的には汚れを除去するのも重要な目的です。
最近のクルマは国産車に限らず、メンテナンスフリーが進み、エンジンオイルも1万キロ以上無交換は当たり前で、10万キロ無交換などというエンジンもあるそうです。
これは化学合成油によるオイル劣化の抑制など、エンジンオイルの性能が上がったことや、エンジンそのものの機械工作の精度が上がったことによるのですが、そのことそのものは廃油の処理も含め、環境に良いのは確かだとは思いますが、一方でエンジンの洗浄という点ではそんなに交換しなくても大丈夫?と疑問を持ってしまいます。

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エンジンオイルはオイルポンプによりエンジン内部を循環して汚れを取る役割もありますので、汚れたエンジンオイルほど良くシゴトをしたオイル・・・と言うことができます。どんなに性能が劣化しなくても、汚れてしまったエンジンオイルはその汚れを再びエンジン内部に戻してしまうことになるのですから、エンジンに良いはずはないと思います。
しかも、一度こびりついたカーボンやスラッジはオイルの循環程度ではなかなか除去することができませんから、一番適切なのは新車時のエンジンが新品の時から、定期的にエンジンオイルを交換し、汚れがつかないようにすることだと思いますが、中古車の場合は前オーナーのこの管理が悪いと、その後でどんなにエンジンオイルを交換しても手遅れになってしまいます。

別件ですが、主治医のところに入院してきたあるクルマは、エンジンオイルを全く交換せず、継ぎ足しで使用していたそうなのですが、開けて見るとエンジン内部はドロドロ状態でした。秘伝のタレではありませんので、継ぎ足しでどんなに新しいオイルを足しても、それは汚れたオイルに混ざるだけで、汚れの総量は増える一方で、最終的にはエンジンオーバーホールとなってしまうのです。

さて、緑スパも私たちの手許にやって来てからは定期的にエンジンオイルの交換をしていましたが、案の定以前は相当いい加減だったようで、実際に開けて見ると燃焼室内部にはカーボンがこびり付いていました。

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バルブもこのようにドロドロでしたので、余程オイル交換をしなかったのだろうと思われます。

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ご承知のようにエンジンの燃焼サイクルは、吸気バルブが開いて新鮮な空気を燃焼室に入れ、インジェクターからガソリンを噴射し、その空気に混ぜることによりガソリン混合気を作り、プラグからの火花で爆発させてピストンを押し下げ、クランクシャフトを廻したピストンは再び上がって来て、開いた排気バルブから燃焼後のガスを排気し、再び吸気バルブが開き・・・というものなのですが、このサイクルを効率よく廻すためには空気の流れが重要になってきます。
その空気の流れを妨げるのがこの汚れですから、単に汚いだけではなく、エンジン性能に大きな影響を与えるのはお分かりいただけると思います。
実際にこの燃焼室内部を研磨し鏡面のように仕上げることにより、エンジンのパワーはアップするのですから汚れなどもってのほかなのでしょう。

今回はこの内部を洗浄するに留めましたが、本来ならば鏡面加工もしたいところでした。それでも軽く洗浄しただけでここまで綺麗になるのですから、古くなったエンジンは一度はオーバーホールをしてみる価値はあると思います。

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次回はヘッド研磨終了の模様をご紹介したいと思います。

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Access Double 164

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相変わらず季節感のないブログで申し訳ないのですが、クリスマスイヴにも係わらず、全く関係のないネタです。
前回のアクセスアワードの際に、「次回は164,164アクセスで・・・」と予告していましたが、その達成がようやく近づいて来ました。
ダブル164ということでテーマ写真も新旧2台の164としたのですが、赤の164は以前の私の愛車であったアルファ164Q4で、シルバーのほうは現在は関西のオーナーズクラブメンバーの許で大切にされているフルオリジナルの初期型アルファ164Aです。
外観はエアロパーツなどを除けば一般の方からすると全く見分けがつかないであろう2台ですが、運転する機会があれば、どんなにクルマオンチの方でもその違いは歴然としています。
最近はどういうワケかアルファ164全般に関してお問い合わせいただくことが多いのですが、私自身は自分で所有したのはこのアルファ164Q4の1台だけで、それ以外のモデルは試乗レベルの所謂、「ちょい乗り」しかしたことはないのです。
ですので、正直細かい質問にはお答えすることができないのが心苦しいのですが、それもアルファ164をきっかけにしたこのブログがこんなに長く書き続けることができ、皆さんにご愛読いただいたからだと思っています。

このブログを書いている時点でのアクセス数は162,000アクセスで、ここ最近の1日あたりの平均アクセス数は280ですので、単純に計算すると暮れの押し迫った辺りが達成時期ではないかと思うのですが、そんな慌しい時期にのんびりとブログなど読んでいただけるのかどうか不安でもあります。

さて、アワードの方法ですが、いつもの通り「164,164」のカウンター画面を私宛にお送りください。
最も早くお送りいただいた方に記念品を差し上げたいと思いますが、毎回僅差で数名の方にお送りいただいておりますので、次点の方にも何か記念品を用意させていただきたいと思っています。
ただ、年末からお正月にかけて旅行に出かけてしまいますので、ご連絡が遅くなってしまうかも知れません。その節はどうかご容赦ください。

画像の送り先は・・・

510190@alfa164.com

までお願いします。さぁ今回はどなたがゲットされるのでしょうか。私も楽しみです。

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イジワル魂

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916Spiderは本当に優等生でナニゴトもなく日常のアシとして活躍してくれています。走行距離も9万キロを超え、もうすぐ大台というところまで来ていますが、やはり購入してすぐ初期化をしたこともあり、消耗部品の交換は必要なものの、それはトラブルと呼ぶべきものではありませんでした。
それでも随分と個体差はあるようで、916Spiderのオーナーズクラブの掲示板を見ているとトラブル続きの方もいらっしゃるようですから、そこはやはりアルファ・ロメオなのでしょう。

永年アルファ・ロメオに乗っていると、予期できるメンテナンスはそれがどんなに重整備であっても全然ナントも思わないのですが、トラブルとなるとやはり慌てます。しかもアルファ・ロメオというクルマはイジワルの魂が宿っているのか、「なんで今?」という状況でクルマに変調を来たすのです。
土砂降りの雨の深夜や繁華街のど真ん中で路駐している時、はたまた一刻もそこから早く出たい駐車場など、「今動かんでどーするっ!」というときに限って動かなくなるのがアルファ・ロメオなのですが、今回のトラブルも最初に聞いたときはこのイジワル魂かと思いました。

緑スパが入院中のため、友人の赤スパを召し上げて代車として使わせてもらっていたのですが、その赤スパーのオーナーから電話がかかって来ました。関係者にはバレバレでしょうがここでは一応R君としておきましょう。

「すいません。赤スパ返してもらえます?実は妹のクルマが車検で156を貸すことになっちゃったんですよ。」

R君は私たちに赤スパを貸している間はご両親のために購入したアルファ156を使っていたのですが、そのアルファ156もなくなり、更に彼が今年衝動買い(笑)したGiulia Sprintは足回りのリフレッシュのために入院中で、いよいよクルマがなくなってしまったのです。3台も自由になるクルマがあったとしても世の中こういう時もあるもんです。

さて、困りました。赤スパを返してしまうと私たちにアシがなくなります。緑スパのオーナーは左ハンドルのATしか運転できず、大きいクルマはダメ・・・といった状態です。
仕方がないので私がクルマをアキラメることにして、R君には916Spiderに乗ってもらうことにしました。
実はR君は以前に916Spiderのオーナーだったこともあり、MT車に乗ると必ずエンストをする癖はあるものの(笑)、それでも慣れてしまえば何の問題もなく、安心して916Spiderを預けることができます。

かくして、私の916SpiderはR君に預けられることとなったのですが、先日久しぶりに冷たい雨が降った日にそのR君から電話がかかってきました。

「916Spiderが壊れちゃいました。エンジンキーを廻してもエンジンがかからないんですよね。おかげで出かける用事があったんですが、電車で行くハメになっちゃいました。すいませんが赤スパを戻してもらえませんか」

本当に申し訳ないことです。暫く晴天の日が続いていたのですが、よりによってこんな日にトラブルを起こさなくても・・・と思うのですが、これもアルファ・ロメオですので仕方ありません。
早速、仕事が終わった後に赤スパを返すことにして、916Spiderが不動状態となっている新宿の地下駐車場に向かうことにしましたが、状況を聞いてみるとイグニッションONの状態でワーニングランプはちゃんと点灯するそうですし、電圧が下がっている様子はないとのことですから、可能性はスターターモーター周りのトラブルでしょう。
主治医などにも相談し、こういった場合の可能性について意見を聞いて見ました。幾つかの可能性がありましたが、何せ実際の状態はR君からの情報しかありませんので、今一つ絞り込むことができませんでした。その可能性とは・・・

1.アルファコードエラー:
この場合はセルモーターが全く廻らなくなるので聞いていた症状と同じですが、もしそうならばアルファコードのワーニングランプが点灯するのですぐに分かるはずです。R君に確認してみたのですが、はっきりしないようです。ちょっと前に自分の156で経験してるだろっ!と思いましたが、そこは迷惑をかけている側ですのでグッとガマンしました(苦笑)が、確認ができないために可能性として残りました。
しかし、このエラーなら緊急始動すればエンジンをかけることができますので、これであって欲しい原因です。

2.スターターモーターのソレノイド不良:
以前乗っていた黒の115Spiderで散々経験したのですが、これが故障するとスターターモーターは廻りませんから聞いていた症状と合致します。スターターモーターの交換となりますが、一時的にはドライバーなどでコンコンと叩いてやると復活します。しかも以前の経験からロングドライバーを916Spiderには積んでありますので、やってみる価値はあるでしょう。これも何とかクルマを動かすことが出来る原因です。

3.イグニッションシリンダー不良:
キーシリンダーそのものか、その配線が不良の場合です。電気システム全体のアース不良でしたらワーニングランプも死んでしまうはずですが、イグニッションの部分だけだと聞いていた症状が出る可能性があります。しかし、残念なことに私は電気関係はどうも苦手ですのでこの場合はローダーで主治医のところに運ぶか、主治医に来てもらうしかありません。この原因が最悪でしょう。

などではないか?と様々な可能性と対策を考えながら、916Spiderの許に向かったのですが、そこは地下3Fの駐車場でした。これではローダーが入ることができませんから、最悪の場合は牽引で一旦外へ出すか、主治医に来てもらうしかありません。暗澹たる思いで916Spiderの運転席に座り、キーを差込みイグニッションを廻してみると・・・

ん?・・・え?・・・何っ?・・・

全くワーニングランプが点灯しません。R君がその前日にエンジンを始動するときに点いていたというワーニングランプが今、点かないということは・・・?

バッテリーじゃん(怒)

どうやらルームランプか何かを消し忘れたのでしょう。原因は単なるバッテリー上がりでした。通常なら真っ先に疑う原因を、R君からの「壊れちゃいました」という第一報と、ワーニングランプは全て点灯するけどセルが全く廻らないという説明で、可能性から消去してしまっていたのです。

それにしてもアルファ164を何台も乗り継ぎ、アルファ156、115Spider、Giulia Sprint2000GTVという3台のアルファ・ロメオを持つオーナーがトラブルとバッテリー上がりの区別が出来ないとは・・・と、温厚な私は思ったりするはずはなく、笑顔のままで、乗ってきた赤スパから電気を貰うことにしたのですが、916Spiderのバッテリーは助手席後ろのコンパートメントの中にあるため、直結するにしても作業がしづらいことこの上ありません。幌を開けてしまえば楽なのですが、バッテリーが上がってしまっているために、トノカバーを開閉するソレノイドスイッチが効きません。心の中で罵りながら狭い空間にカラダを押し込んで(苦笑)、やっとの思いでジャンプケーブルを繋ぎ、赤スパのバッテリーとの連結を完了したのですが、916Spiderのバッテリー残量は殆どなく、暫くの間地下の駐車場で115Spiderのエンジンを吹かし、ようやくエンジンを始動することができました。

一度上げてしまったバッテリーは初期性能を発揮しませんので交換しなければなりませんが、行く前には最悪の事態に備えて、ローダーの手配や中古スターターモーターの手配も準備していたので、それに比べればバッテリー1個でコトが済むのであればこんな幸運なことはありません。

もう夜も遅いのでこれ以上主治医にも迷惑をかけられませんので、しばらく首都高でも走って充電することにしたのですが、帰り間際にR君が言った一言には痺れました。

「いつでも助けますから言ってくださいね」

本当にア・リ・ガ・タ・イ・ことです(苦笑)

R君の名誉のために書き加えておきますと、彼はメカオンチではありませんし、説明下手でもありません。ましてやKYなヒトでも恩知らずでもなく、むしろ人格円満、頭脳明晰なヒトだと思います。

R君、温厚な私はちっとも怒ってませんのでくれぐれも誤解のないようにお願いしますね(爆)

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伝説のプラモ屋

おおよそ私たちの年代の男性で田宮模型という会社を知らない方はいないのではないでしょうか。
それはさしずめ、現在のTVゲームの会社のように当時の子供の世界での知名度ナンバーワンの企業なのですが、その田宮模型の社長である田宮俊作氏の自伝(社史)とも言える「田宮模型の仕事」と「伝説のプラモ屋」という書籍が2冊出版されています。

伝説のプラモ屋

私が生まれて初めて自分の意思で買ったプラモデル(これはマルサンという会社の登録商標だったようですが、一般的なので総称として使わせていただきます)は残念ながら田宮模型のものではありませんでした。
それはアメリカのレベル社の1/72スケールの飛行機のプラモデルでマッキCR42というイタリアの複葉戦闘機でした。今もって何故こんなマニアックなものを買ったのか定かではないのですが、塗料と筆を一緒に買ってもらい、シンナーの臭いがあまりに酷いので勝手口の土間で組み立てさせられたのを覚えています。もちろんその出来栄えは惨憺たるもので、素晴らしい箱絵(ボックスアート)とのあまりもの違いに愕然としたのですが、それでも自分の手で完成させたこの複葉機は暫く私の宝物でした。
その後もこのレベル社のポーランドのPZL P.11戦闘機だのロシアのI-11戦闘機など、どちらかと言うとゲテモノに属する飛行機のプラモデルを作っていた記憶があるのですが、今から思えば友人達が買っていた零戦やP-51Mustangといったメジャーなモデルには目もくれなかったのは、現在の気質のルーツだったのかも知れません(苦笑)

それ以来プラモデルは私の趣味となり、殆ど作らないにも係らず自分自身では趣味だと言えるほどになったのですが、過去から現在に至る間で最も多く作った(買った)のがこの田宮模型のプラモデルでした。
1960年代後半から1970年代はプラモデルの黎明期から成熟期で、数多くのメーカーがこの業界に参入して来ました。日本におけるプラモデルメーカーは静岡県に集中しており、それは偏に静岡県が木材加工が盛んで、その流れで木製模型のメーカーが多く誕生し、それらが木材を捨ててプラスチックを素材にしたモデルに転換したからなのですが、残念ながら私が模型屋に出入りしていた頃は木製模型は艦船模型の一部とゴム動力で飛ぶ飛行機程度しかなく、店の大半はこのプラモデルで占められていました。

価格の差は当然として、当時は輸入品と国産品の差は歴然としており、前述のレベル社やモノグラム社のプラモデルと国産のものを比べると、本当に情けなくなる程国産品は劣っていました。
私も自分の小遣いですぐに買うことができるのは国産品でしたが、店頭で比べて見るととてもその国産品を買う気にならず、ガマンして小遣いを貯めてモノグラム社のものやエアーフィックス社のプラモデルを買っていました。今から思えば随分と生意気な子供だったと思いますが、子供心にもその国産品のいい加減なモデルにはガマンができなかったのです。

そんな私にとっても別格だったのがこの田宮模型で、そのプラモデルは他の日本のメーカーとは明らかに異なっており、当時の欧米製のプラモデルに匹敵する出来栄えでした。
まずは箱絵です。例えば他の日本のメーカーの箱絵は「かろうじてそう見える」という酷いものだったり、素晴らしい箱絵であったとしても中味は???であったりで買ってから裏切られるのが当たり前だったのですが、田宮模型のものだけはその素晴らしい箱絵とその箱絵を裏切らない中味とで、安心して買うことができたのです。
なぜこれほどまでに箱絵が重要かと言うと、私が通っていた地元の模型店はちゃんと箱を開けて中味を見ることができたのですが、当時は買うまで中味を見せてくれない模型店もあり、箱絵だけを頼りに選ばざるを得なかった子供は、悩んだ末に買ってから中味を見てとても悔しい思いをしていたのです。

その後も気がつけば田宮模型のプラモデルを買っていました。1/35のミリタリーミニチュアシリーズでもタイガーI型などというメジャーなモデルには目もくれず、ブレン・ガンキャリアーだのシュビム・ワーゲンだのというゲテモノ?趣味は変わらず、1/700のウォーターラインシリーズ(これは静岡4社のプラモデルメーカーの共同シリーズでした)も田宮模型のものしか買わず、しかも戦艦や空母には目もくれず、軽巡洋艦や駆逐艦ばかりを作っていました(苦笑)
一時期は良く出来すぎた田宮模型の製品が物足りなくなったこともありましたが、それは贅沢というもので、作りにくい他社のキットと格闘した後に田宮模型のものを作ると、仮組みをしなくてもちゃんと組み上がるその品質にほっとしたものです。

この「伝説のプラモ屋」を読むと、当時の田宮模型自身も欧米のキットに負けないものを作る・・・という目標に向かって全社員が努力していたことが良く分かります。そして何より儲かるからではなく、模型を愛して自分達が納得したものだけを製品化するという姿勢が現在の田宮模型の地位を築き、日本だけでなく世界中のモデラーから信頼を集めているのだと思います。

残念ながらプラモデルそのものは田宮模型が発明したものではありませんし、その基幹技術であるプラスチック成型技術も一般的な工業技術であり、田宮模型が開発したものではありません。
このように要素技術の全てに特許性がなく、その分野を独占することができない環境であっても、他社の追随を許さずトップを走り続けることができるのは、田宮模型の製品と市場(顧客)に対する見識やその企業哲学がブレることなく一貫していたからであろうと思います。

昨今の世界的不況で製造業は史上最悪の状態にありますが、だからこそ問われるのがこの企業姿勢で、単にプラモデル屋の社史ではなく、その内容は製造業全般に従事する方にとって勇気づけられるものだと思いますので、機会があればご一読をオススメします。

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フライトジャケットのススメ

これからの季節にオープンで走っていると変人のように見られますが、夏場より真冬のほうがオープンには気持ちよい季節であることはご存知だと思います。それは足許がヒーターにより暖かく、一方で顔は冷気に晒されることによるもので、ちょうど雪の露天風呂に入っているようなものなのですが、周囲のヒトから見ると、「なんでわざわざ・・・?」と見えてしまうのでしょう。
一方で夏場は暑いだけで、走行中は風により汗が乾いたとしても日差しは和らぐわけではありませんので、帽子を被らなければ熱中症の危険がありますし、注意をして水分を補給しなければ脱水症状にもなりかねません。しかし、周囲からは「気持ちよさそう・・・」と羨望の目で見られるのですから、皮肉なものです。
いずれにせよ、何かと見られることの多いクルマですから服装にもそれなりに(苦笑)気を遣いますし、その着こなしに加えて、機能性も優れていなければならないのがDriving Jacketではないかと思います。

冬場のDriving Jacketとして最適なものはフライトジャケットと呼ばれる飛行服だと思います。昔の飛行機は現在のように室内を暖房したり与圧したりしていませんでしたから、そのコクピットは過酷そのものでした。高度10,000フィートで飛行していたとしても、そこは標高3000メートルの山の頂上と同じ環境なのです。さらに飛行機の性能が向上し、高高度を飛行できるようになるとさらに過酷になって行きます。
第二次世界大戦中のアメリカ陸軍航空隊爆撃機は爆撃目標地点まで高度30,000フィート(10,000メートル)を飛行していましたから、いくら酸素マスクや電熱ヒーターをつけていても寒いことには変わりなかったのです。
そんな搭乗員向けに各国はそれぞれ独自のフライトジャケットを開発するのですが、最も優れていたのがアメリカ陸軍航空隊が採用した一連のものだと言われています。
そして現在の装備に至るまで、米軍の規格(MIL-Spec.)ではその防寒性の程度に応じて、フライトジャケットは以下の5種類に区分されています。

VERY LIGHT ZONE 30〜50度 (M421・J7758など)
LIGHT ZONE 10〜30度 (L-2系・A-1・A-2など)
INTERMEDIATE ZONE -10〜10度 (B-10・B-15系・MA-1・B-6など)
HEAVY ZONE -30〜-10度 (B-3・B-9・N-3Bなど)
VERY HEAVY ZONE -50〜-30度 (B-7・B-9・AL-1など)

この区分からすると、冬場のDriving Jacketに適しているのは、INTERMEDIATE ZONEとHEAVY ZONEに区分されるもので、今回ご紹介するのはB-3と呼ばれる爆撃機搭乗員が好んで着用したフライトジャケットです。

Bomber Crew

上の写真で左から三人目の搭乗員が着ているのがB-3で、それ以外はA-2タイプです。
B-3はシープスキンの裏を外側に、毛皮側を内側にして仕立てた保温性を重視したジャケットです。
部分的に馬皮を補強用に当てたものもあり、1940年前後から第二次世界大戦中に標準採用されましたが、B-29以降の爆撃機は与圧キャビンとなり空調も効くようになったため、このような重装備は必要とされなくなり、だんだんとフライトジャケットも皮製からナイロン製へと変更されるようになります。

しかし現在でもこのB-3は根強い人気があり、そのデザインをモチーフに様々なレザージャケットが作られているのはご存知の通りです。
「ホンモノ」を手に入れることは叶わないまでも、そのレプリカは、オリジナルデザインに拘るか、ファッション性を重視するかなど、当に「選り取り見取り」で入手することができます。

オリジナルを徹底的に追求するのであれば、イギリスのEastman Leather社のものがオススメですが、少しカジュアル寄りであればこのAVIREX社のものが良いのではと思います。

AVIREX B-3

少し、薀蓄を入れるとB-3の特徴はその背中の皮使いで、初期のモデルは1枚皮だったのですが、戦争の激化に伴い大量の皮を必要とするために、このように分割されて仕立てられるようになります。

B-3 Back

B-3に限らず、皮製のフライトジャケットには部隊のエンブレムを書いたり、機体のニックネームを書いたりと思い思いの装飾も施されていましたので、アルファ・ロメオのエンブレムをさり気なく・・・というのもアリかも知れません(笑)

さらに、もっと拘ったチョイスをするのであれば、B-3ではなくRAF(イギリス空軍)のフライトジャケットも良いのではと思います。これはIRVIN Jacketと呼ばれる同じく第二次世界大戦中のもので、B-3と比べて丈が短く、ポケットがないのが特徴です。

RAF Jacket

アメリカ陸軍航空隊がイギリスを基地としてドイツを爆撃していた頃は、他人と違うものを・・・と考えたお洒落なパイロットの間で、イギリス空軍のパイロットのIRVIN Jacketと自分達のB-3を交換するのが流行したそうです。軍人が支給品を・・・というのは野暮で、それは黙認されていたようですから日本の軍隊とはえらい違いでした。
これ以上薀蓄を書くとだんだんヲタクっぽくなって来ますので、この辺で筆をおきますが、どんな服を着るにせよ、晴れた冬の日は幌を閉めるのではなく、格好良くオープンで走りたいものです。


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テーマ:メンズファッション - ジャンル:ファッション・ブランド

上がったり、下がったり・・・

115Spiderは壊れない・・・と言い続けていますし、現実に緑スパは道端で立ち往生したことはありません。では、手がかからないか?というとそんなことはなく、どこで妥協するかという問題はあるにせよ。初期化と適切なメンテナンスが必要なことは言うまでもありません。
特に緑スパの場合は、毎日通勤で使っていることもあり、単なる初期化ではなくメンテナンスも定期的に行わなければなりません。

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その緑スパは暫く前から「オイル上がり」「オイル下がり」と呼ばれる両方の現象が出てきました。
オイル上がりとは、ピストンリングやシリンダーの摩耗によってエンジンオイルが燃焼室に入り込み、混合気と一緒に燃焼されてしまう症状で、加速時にマフラーから薄青白い煙が出ることで分かります。こうなるとコンプレッション(圧縮圧力)が下がって加速が鈍くなって来るのでエンジンをオーバーホールしなければなりません。
一方で、オイル下がりとは、バルブステムシールの劣化などによってエンジンオイルが燃焼室に入り込み、混合気と一緒に燃焼されてしまう症状で、こちらは加速時ではなくアイドリング時にマフラーから薄青白い煙が出ます。
この両方の現象が出てきたのですから、いずれにせよエンジンを開けてみなければなりません。

とりあえず、エンジンのシールガスケットとバルブシールガスケット一式をアメリカから取り寄せ、主治医に入院させることとなりました。
エンジンをチェックするために入院する場合、クルマは「霊安室」と呼ばれる工場の一番奥に引き込まれます。それは暫くの間はクルマを動かせなくなることを意味しますので、作業効率を考えると部品を揃えて、整備方針を立てた上での作業となります。
行き当たりばったりでこの作業に入ってしまうと、何ヶ月もクルマがその場所を占拠してしまうことになるので、今回はセミオーバーホールという方針でエンジンを開けてもらうことにしました。

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実際に補機類とヘッドを外してエンジンブロックを見てみると、明らかにヘッドからオイルが滲んでいることが分かります。これはヘッドガスケットを交換すれば治るでしょう。
しかし、ヘッドを外したことによってこのエンジンは意外に重症なことが分かってきました。それはカーボンとスラッジがこびりついたピストンからも分かります。

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このエンジンは現在走行7万キロで、手許にやってきてからは定期的にオイル交換をしているのですが、余程以前はオイル管理をサボっていたのか、とてもそんな距離とは思えないほど汚れていました。

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バルブも同様で、右が外したままのバルブで左が洗浄後です。カーボンがこびりついて真っ黒になっているのがお分かりいただけるでしょうか。

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そしてヘッドは研磨するために外注に出されるのですが、外して調べてみるとそこで意外なことが発覚したのです。

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エンジンブロックは鋳物で出来ています。鋳物とは溶かした金属を砂などの鋳型に流し込んで冷やすことにより作るのですが、冷えて鋳型を壊して取り出して見ると、複雑な形状の場合は特に、余分なところに金属が流れ込んだ、バリと呼ばれるものができてしまいます。
最終的にはそのバリを削って鋳物を仕上げるのですが、ナンとこのエンジンはその作業を途中で止めてしまった形跡があり、削り残しのバリが残っていたのです。

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燃焼室のこの部分は非常に高速で混合気が流れるために、少しでも抵抗を減らすべく形状に工夫をしたり、さらにエンジンパワーを上げるために研磨を重ねて鏡面仕上げを行ったりするのですが、その部分にバリが残っていたのですから恐れ入ります。

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確かにパワー不足は感じてはいたのですが、ATだからこんなものだろう・・・と思っていました。しかし、もう一台の赤スパと乗り比べて見ると明らかにパワー不足だったのは、おそらくこの辺りも原因だったのではないでしょうか。これは明らかにアルファ・ロメオの作業員の手抜きです(苦笑)。

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ステムシールもゴムが硬化していましたので、ここからもオイルが漏れていたのでしょう。こういったシールはこの際ですので全部交換することにします。
今回は時間と予算に限りがあるためにオイルパンのガスケット交換はやらずに、次回に持ち越しとしましたが、その殆どのオイル漏れはヘッド周りからでしたので、この判断は正解ではないかと思います。
最終的にはヘッドを研磨してシールガスケットを交換し再度組み付けて圧縮圧力下がらないようにし、オイル漏れを止めることにより、エンジンも本来のパワーを取り戻すでしょう。

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この作業で入院している間は、例の赤スパを召し上げて代車として使わせてもらっています。(苦笑)
持つべものは友人で、大変有難いことです。
しかし、この赤スパもいざ乗ってみると細かい点ではありますが、気になるところが出てきました。
オーナーの精神衛生上も良くないと思いますので、問題点を整理して返却時には指摘しておきたいと思っています。

さて、「病気は病院で見つかる」ものですが、今回のセミオーバーホールでこれ以上の問題が発見されないことを祈るばかりです。

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ALFA ROMEO Sport Collection 総集編 1980年代~現在

アルファ・ロメオを傘下に納めたFIATは徹底した合理化を推進します。それはFIATとのシャシー共用による新型車開発で、アルファ・ロメオはそれまでの「伝統の」FRレイアウトと決別する代わりに、ようやく生産設備を近代化することができました。
こうして開発されたはアルファ155はFIAT Tipoとシャーシーを共用するFFレイアウトのBerlinaでしたが、アルファ・ロメオのスポーティイメージが薄いことから市場の反応は否定的で販売は伸び悩みました。そこでアルファ・ロメオはこのアルファ155をベースにした1996年 155 V6TIをレースに投入し、スポーティイメージを上げることにします。

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ドイツツーリングカー選手権(DTM)に初出場した1993年にいきなり年間チャンピオンを獲得するという快挙を成し遂げたアルファ155はその後も勝利を重ね、久しぶりに勝ちまくるアルファ・ロメオにようやく市場もアルファ・ロメオの復活を認めることになるのです。

1996年 155 V6TI "TV Spielfilm"

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本格的なアルファ・ロメオの復活はアルファ156の成功によって確立されました。続くアルファ147はさらに製造品質が向上し、この2車種によりアルファ・ロメオは完全に経営を建て直すことができたのです。
そしてそのどちらにも、ホットバージョンが設定され、2003年 Alfa147 GTA Cupによるワンメイクレースが開催されました。

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2003年 Alfa147 GTA Cup (2003 Champ)

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もう一方のアルファ156はサーキットに打って出ます。発売当初からツーリングカー選手権に出場したアルファ156はその熟成が進み、ついにETCC(ヨーロッパツーリングカー選手権)のスーパー2000クラスを2004年156 GTAで制します。

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2004年 156GTA (Puebla-Messico 2006)

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新世代のアルファ・ロメオはGM製のエンジンをベースに設計されることとなりました。2005年 Alfa159Q4 3.2 JTSは、ジゥジアーロによるコンセプトカーBreraのフロントマスクをデザインモチーフとしたBerlinaで、アルファ156とアルファ166の二つのモデルの後継車という位置づけです。

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そのBreraも発表が待たれていたモデルです。コンセプト段階で多くのアルファ・ロメオファンを魅了したにも係らず、市販化が遅れ、もはや「お蔵入り」か?と心配されたのですが、アルファ159とシャーシーを共用し、2005年Brera 3.2 JTS V6 Q4として発売されました。

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そしてさらに待ち望んでいたモデルが2006年 8C Competizioneではないでしょうか。アルファ・ロメオはいつの時代にもその節目にこういったイメージリーダー的なクルマを製造し、これからの進む方向を具体化して提示して来ました。
8C Competizioneは、アルファ・ロメオが例えシャーシーやエンジンが何であろうと、これからもアルファ・ロメオであり続けることを示唆しています。
「こんなのが作れるんだから、俺達は大丈夫だよ」
とファンに向けたメッセージが聞こえてくるようなモデルだと思います。

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こうしてミニチュアモデルでとは言え、改めてアルファ・ロメオ100年の歴史を振り返って見ると、アルファ・ロメオがどんなクルマを作りたかったのかが分かります。

アルファ・ロメオはイタリアの誇りであり、単に「速い」だけでなく「美しく速く」なければなりません。それが例え無骨なBerlinaであったとしても、アルファ・ロメオのエンブレムを付ける以上はエレガントである必要があるのです。
過去全てのレースでの勝利は、現代のアルファ・ロメオのオーナーにとっても誇りであり、アルファ・ロメオであれば、ちゃんと自分の愛車がその数多くの勝利の末に存在していることを知ることができます。
そしてかつてヘンリー・フォードが言った様に、「アルファ・ロメオが走り去るときに帽子を取る」という尊敬を受けるに値する数少ないブランドがこのアルファ・ロメオではないかと思います。


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ALFA ROMEO Sport Collection 総集編 1970年代後半~1980年代

「本業そっちのけ」のレース活動により、さらに経営状態の悪化したアルファ・ロメオは、公的資金が注入され、イタリア政府管轄下に置かれていましたが、その政府の経済復興政策の一環としてイタリア南部の産業振興をすることとなりました。イタリアは北部に工業、商業が集中しており、南部との経済格差は悩みの種だったのですが、その振興策として命ぜられたのが、ナポリに新工場を建設し自動車を作るというものだったのです。
こうして生まれた1972年 Alfasud T.I. Trofeo (Varano de' Melegari 1976)は、当初ノルド(北)で製造されていなければ、アルファ・ロメオではない・・・とまで言われましたが、そのコンパクトなボディとFFとは思えないハンドリング性能からたちまち好評を博するようになります。

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そしてアルファ・ロメオはAlfasudの性能をアピールするためにワンメイクレースを企画し、著名なドライバーに運転させたりするキャンペーンを実施しました。

1972年 Alfasud TI Trofeo

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Alfasudは3ドアハッチバックに加えて、Sprintと呼ばれるスリークなクーペも加えられました。1976年 Alfasud Sprint Trofeo (Zandvoort 1983)はAlfetta GTにも通じるデザインで、ハッチバッククーペという形式は当時のデザイントレンドとなり、当時の他車のデザインにも多くの影響を与えました。

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一方、ミラノでもやっとAlfetta Berlinaに続いてSprintボデイと言って良いGTが発表されます。1976年 Alfetta GTV 2000 のデザインはジゥジアーロで、Giulia Sprintと同様に4座クーペとしてGiulia以上の居住性を有しており、さらにハッチバック方式による使い勝手の良さも加わり、実用性を兼ね備えたクーペとして高く評価されました。

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当然のことながらこのAlfetta GTはGiulia Sprintの後継モデルとしてサーキットでも活躍するのですが、当時アルファ・ロメオはTipo33にそのレース資金の殆どを注入していたために、Alfetta GTのレーシングカーとしての改良は進みませんでした。そのためAlfetta GTはラリーを中心にレース活動をしたのですが、その活動範囲は限られておりターマック(舗装路)中心のラリーでしか上位に食い込むことはできませんでした。
1976年 Alfetta GTV 2000 (1978 Sanremo)

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このように経営そのものは苦しい中にあって、アルファ・ロメオはそれでもレース活動を続けていました。Tipo33プロジェクトはそれに替わるものがなかったとは言え、結果として10年近くも続けられ、当初のプロトタイプではGiuliaの4気筒エンジンに始まり、V8エンジンを経て水平対向12気筒エンジンにまで発展し、更に1977年 Tipo33 SC12 Turboはその12気筒エンジンにターボチャージャーを搭載するまでになりました。

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アルファ・ロメオの開発資金難は深刻でした。ようやく新規に開発した1977年 Nuova Giuliettaもシャーシーを開発する余裕がなく、Alfettaのシャーシーを流用するという苦肉の策で凌ぐしかありませんでした。加えてこのAlfettaのシャーシーはその凝ったレイアウトのせいで製造コストが高く、更に経営を圧迫するのです。

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新シャーシーを開発する余裕がないアルファ・ロメオは既存のシャーシーとエンジンを組み合わせて、マイナーチェンジを図るしかありませんでした。1980年 GTV 6 2.5 (500km di Monza 1982)も従来のAlfetta GTのボディに新しいV6エンジンを搭載したモデルでした。

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そして、Tipo33プロジェクトの後にアルファ・ロメオが始めてしまったのが、ナンとF-1だったのです。当初はエンジン供給のみだったのが、それで収まらずにシャーシーも自社開発し、気がつけばフルコンストラクターとしてレースに臨んで行ったのです。
1981年 179C

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腕利きのドライバーが乗ったマシンは上位に食い込むことがあったものの、絶対的な資金不足のためマシンの信頼性が上がらず、その成績は振いませんでした。そしてついにレギュレーションの変更により撤退を余儀なくされてしまい、戦前のGPレースから続くアルファ・ロメオのF-1参戦の歴史は再び長い中断期間に入ることになります。
1981年 179C(G.P. del Nurburgring 1981)

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販売の不振とレース活動の経費増大によりアルファ・ロメオの経営は倒産状態となってしまいます。それでも企業活動を続けることができたのは、政府による資金注入のおかげだったのですが、それでもさらにF-1にまで参戦し、またそれを許されたのはアルファ・ロメオがレースにより名声を獲得し、それを販売に結び付けてきたからに他ならないのですが、一方でそのレースに勝てないのですから、アルファ・ロメオにはもはや打つ手はないかに見えました。
頼みの新型車1987年 75 Turbo Evoluzione IMSAもぞれまでと同様にAlfettaのシャーシーを流用するしかなく、多くの制限を受ける中での開発だったのですが、その製造コストの問題を除けば基本に優れたこのシャーシーによる新型車は、何とか世間水準の性能を発揮していました。しかしそれでも経営状態を改善するほどの販売には至りませんでした。

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経営状態が全く改善されないアルファ・ロメオはついに政府にも見放されてしまいます。もはや倒産しかなく、アルファ・ロメオの名前は消えてしまうかに思えたときに、救いの手を差し伸べたのが永年のライバルであるFIATだったのです。
こうしてアルファ・ロメオはFIATグループの一員として1990年代を迎えることとなります。

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ALFA ROMEO Sport Collection 総集編 1970年代前半

1970年初頭はアルファ・ロメオにとっては厳しい時代の始まりでした。営業成績は頭打ちとなり始め、販売を活性化させるであろう次期モデルはまだ先のことでした。それでもアルファ・ロメオはレース活動にのめりこんで行きます。

1970年 MontrealはTipo33用に開発されたV8エンジンを搭載したロードゴーイングモデルとして企画され、モントリオールで開かれた万国博覧会でのデザインスタディが発表されたことからこの車名が付けられました。

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1970年代になってもGiuliaはサーキットで活躍を続けていました。1970年 1750 GT amはレギュレーションの変更に伴い、改造範囲が広がったためにより戦闘力を増したモデルですが、そのアグレッシヴな外観はGiuliaのイメージを一変させていました。

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アルファ・ロメオはTipo33のスポーツプロトタイプクラスへの挑戦を続けました。それはもはや執念と言って良く、ポルシェやフェラーリといった強豪がひしめく中で、排気量不足によるパワー不足に悩み続けていました。ようやく排気量を3Lにアップした1970年 33/3 Coda Lunga (1970 Le Mans)をもってしても、ライバルは5Lの排気量を持っており苦しい状況は変わりませんでした。

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それでも、残念ながらこのV8エンジンは排気量3Lが限界でああったため、アルファ・ロメオはTipo33で戦い続けるしかありませんでした1971年 Tipo33/3 Sport Prototipoのようにパワーをチューニングによりアップさせ、軽量化をすることによってようやく勝利するのがやっとだったのです。

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本来ならばこのレースからは撤退するのが合理的な判断なのですが、それでもアルファ・ロメオはTipo33に手を加え続けます。
1971年 33/3 (1971 Sebring)
そしてそのことがアルファ・ロメオを資金的に追い詰めて行くことになるのです。

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一方のGiuliaのほうも段々戦闘力に陰りが見えて来ました。レーシングカーとしてのチューニングは1971年 2000 GTAm (24 ore di Spa 1971)が限界でした。

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Giuliaシャーシーをベースにして製造された1972年 1600 Junior Zagatoはザガート社が単にデザインをするだけでなく、メーカーの設備では採算の取れない少量の量産車を製造する工場としての第一歩となったモデルでした。少量とは言っても、それはかつてのSZやTZのような手作りの生産ではなく、1000台単位のロットでの生産を意味しており、その設備投資は膨大なものでした。

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そしてようやく待望のGiuliaシリーズの後継モデルが発表されます。伝統の名前が名づけられた1972年 Alfetta Berlinaはレーシングマシンのレイアウトを持つ、いかにもアルファ・ロメオらしい贅沢なセダンでした。

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Alfetta Berlinaは好評をもって迎え入れられましたが、すでにアルファ・ロメオの経営状態は悪化しており、この新しいシャーシーをベースにしたスポーツモデルの発表は遅れることになります。

1972年 Alfetta Berlina (Rally Model)

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アルファ・ロメオは市販車の開発を遅らせてでもどうしてもレースに勝ちたかったのでしょう。1972年 33 TT 3 (Targa Florio 1972)は、それまでのTipo33を更に軽量化するためにスペースフレーム形式に改めます。それは全く別のクルマを開発することでした。

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そしてさらに水平対向12気筒エンジンを開発し、1974年 Tipo33 TT12 (1974 Monza)に搭載します。
もはや本業そっちのけとなってしまいました。

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そして最後の最後にチャンピオンシップを獲得するのですが、それはTipo33がデビューした1967年から8年後の1975年1974年 Tipo33 TT12 (1975 Nurburgring)のことでした。

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レース活動に没頭しすぎたアルファ・ロメオの経営は深刻な状態となってしまいましたが、それでもアルファ・ロメオはまだレース活動を続け、ついに禁断の領域に踏み込んでしまうのです。

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ALFA ROMEO Sport Collection 総集編 1960年代後半

今尚、アルファ・ロメオと言えば思い浮かぶのがこの、1965年 Giulia Sprint GTAではないでしょうか。
ベルトーネ時代のジゥジアーロデザインによるこの美しいクーペは、単にその外観が美しいだけでなく、後席の居住性も素晴らしい4座のクーペでした。

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そしてGiulia Sprintは当然のことながらツーリングカーレースで大活躍することになります。
1965年 Giulia Sprint GTA 1600(1967 Monza)

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一方でコンペテションモデルも鋼管スペースフレームにFRPボディを纏った究極の1965年 Giulia TZ2が登場します。

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ザガートの軽量化技術により、アルファ・ロメオは小排気量ながら高回転/高出力エンジンで、同クラスのライバルだけでなく、大排気量のクルマにまで勝利することができたのですが、その究極の姿が
1965年 Giulia TZ2 (1963 Le Mans)でした。そしてそのことにコダワリ過ぎたことが後年のレースで苦渋を舐めることにもなるのです。

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アルファ・ロメオのラインアップにSpiderは必要不可欠でしたが、Giulietta Spiderの基本設計のままのGiulia Spiderではさすがに古くなりすぎてしまったために、Giulia Sprintをベースに新設計され、1966年 1600 Spider Duettoが発表されます。このSpiderがその後、30年近くに亙り製造されることになるとはその当時の誰も想像しなかったことでしょう。

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発表に当たって、公募されたネーミングであるDuettoはその後、他の商標に抵触する恐れが出てきたために自然消滅的に使われなくなってしまいましたが、クルマそのものはピニンファリーナの素晴らしいデザインのため、改良とリデザインを受けながら製造し続けられたのです。

1966年1600 Spider Duetto (Targa Florio 1973)

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Giulia Sprintのレースでの活躍とは別に、コンペティションモデルであるTZ2はその排気量の問題から苦戦を強いられるようになっていました。アルファ・ロメオは新たなコンペティションモデルであるTipo33プロジェクトをスタートさせるのですが、そのロードゴーイングモデルとして発表された1967年 Tipo33 Stradaleはその流麗なスタイリングから、今尚、アルファ・ロメオの歴代のモデルの中でも名車と称えられるモデルです。

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そして、Tipo33のコンペティションモデルである1967年 33.2 Fleron (1967 Sebring)がレースデビューするのですが、当初はボディの空力問題とエンジンのパワー不足から目だった成績を上げることはできませんでした。そしてアルファ・ロメオはこのTipo33の改良に次ぐ改良で疲弊して行くことになるのです。

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一方で量産車は好況を呈していました。売れ筋のBerlinaはサイズアップのニーズに応えるべく、1967年 1750Berlina (24 ore di Spa 1968)がGiulia Superの上位車種として発表されました。

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Giulia Sprintはレースレギュレーションの変化に対応するだけのエンジンラインアップを持っていました。1968年 GTA 1300 Junior (1968 Mugello)は同クラスのミニ・クーパーを相手に善戦しました。

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Tipo33は改良を受け、その戦闘力が増してきました。1968年 Tipo33.2 Daytona coda lunga (24 ore di Le Mans 1968)は依然としてライバルよりも少ない排気量ではありましたが、その高い信頼性と軽量故の運動性のために、特に耐久レースにおいては勝利を納めるようになりました。

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そして1970年代に入ってアルファ・ロメオは経営的に試練のときを迎えることになります。

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ALFA ROMEO Sport Collection 総集編 1960年前半

1960年代がアルファ・ロメオにとっての黄金時代であったことに異論がある方はいないでしょう。
戦後の量産車メーカーへの転換はGiuliettaシリーズの成功で確実なものとなり、その発展型であるGiuliaに至り、これらをベースにしたレーシングモデルがサーキットや公道レースで大活躍した時代でした。
現在のアルファ・ロメオの礎となったのがこの1960年代で、そのデザインは現在のアルファ・ロメオのデザインモチーフとして引き継がれているのです。

1961年 Giulietta SZはGiuliettaをベースにしたスポーツモデルの中でも最も有名なモデルです。

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ザガートによる軽量で空力に優れたボディデザインはその後のアルファ・ロメオのコンペティションモデルの基本コンセプトを確立しました。
1961年 Giulietta SZ (24 ore di Le Mans 1963)

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アルファ・ロメオにとって例えどんなにスポーツモデルが有名であったとしても、実際の販売台数で大多数を占めるのがBerlinaと呼ばれるセダンボディでした。そしてそのBerlinaもアルファ・ロメオであるが故にチューニングバージョンを求める声が強く、1962年 Giulietta T.I..のようなモデルが製造されました。

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そして時にはスポーティモデルを凌ぐ活躍を見せてくました。
1962年 Giulietta T.I.. (1962 Rallye Monte-Carlo)

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そんな中にあって、ようやく戦前のような大排気量の豪華な車種のニーズも出てきたことを受けて製造されたのが、1962年 2600Sprintです。この車種はその販売台数も少なく、決して成功作とは呼べないかも知れませんが、アルファ・ロメオにとっては戦前からの顧客に向けたメッセージとして重要なモデルでした。

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1962年 2600 Sprint (Bologna-Passo della Raticosa 1968)

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Giuliettaは排気量をUPされGiuliaへと発展して行くのですが、1963年 Giulia T.I. Superもそのサイズを大きくした新型のボディデザインとなります。「醜いGiulia」と評されたその独特のデザインは、一見すると単なる箱型に見えるものの、そのディテールは実に細かい局面で構成されており、そのルーミーな室内と相まって味わい深い名車として現在も人気のあるモデルとなりました。

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速い「ハコ」の代名詞として、フォード・コルチナ・ロータスと並び称される1963年 Giulia TI Super (1990 Buenos Aires)は、現代もヒストリックカーレースで活躍しています。

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一方で純粋なコンペティションモデルも大きな変革がなされることになります。それまでのモノコックボディからより一層の軽量化を目指して改良された鋼管(チューブラー)フレームを持つ、1963年 Giulia TZはたちまち活躍をするようになります。

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1963年 Giulia TZ (1967 Mugello)

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GiuliettaからGiuliaへの発展に伴い、スペシャルモデルであったSprint Specialeも1963年 Giulia Sprint Specialeへと進化することになりますが、その外観上の変更は僅かで、排気量UPが中心でした。

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そして1960年後半になりいよいよGiulia Sprintが登場することになります。

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