「スカイライン」と聞いて想いだすのは三代目のC10型のサーキットでの活躍・・・という方は相当の年輩でしょうし、30代以上の方であれば八代目R32型の活躍ではないかと思います。
日本の自動車史において、これほどまでに市販モデルとレーシングモデルの活躍が連綿と結びついているクルマはないのではと思います。
今年はそのスカイライン生誕55周年とのことで、各地で様々なイベントがあるようですが、今回の会場ではその歴代のスカイラインのモデルを展示していました。そしてそれはレーシングカーではなく一般乗用車として見たときにも自動車の発展と日本の経済成長との縮図を見ることができる展示でした。

このクルマがスカイラインの起源です。
1957年に富士精密工業(後のプリンス自動車)によって発売されたこのALSI型からスカイラインの歴史は始まりました。外観はトヨペット・クラウンと同様に当時のアメリカ車のデザインの影響を受けていることが分かります。
一方で驚くべきことにその足回りは最先端で、フロントはダブルウイッシュボーン、リアはド・ディオンアクスルと凝ったレイアウトを採用しており、このコストを重視しない企業体質が後にプリンス自動車が日産に吸収されてしまう原因の一つとなってしまうのは皮肉なことなのですが、一方で、だからこそスカイラインが日本の自動車史に名前を残すことができたのだと思います。さしずめ、日本版アルファ・ロメオがプリンス自動車なのかも知れません。

さらにプリンス自動車の挑戦は続きます。それは1960年トリノショーで発表されたスカイライン・スポーツで、そのボディデザインはミケロッティが手がけたものでした。
それまでの市販モデルがアメリカ車のデザインを引きずっていたことに対して、当時は新しいデザイントレンドを模索する日本のメーカーがこぞってイタリアのカリッェリアにデザインを依頼していたのですが、いきなり極東の見知らぬメーカーがトリノショーにこのクルマを展示したのですから、さぞかしヨーロッパの人たちはビックリしただろうと思います。
もちろんミケロッティの薦めもあったのだろうと思いますが、これが単なるデザインスタディに終わらないところがプリンス自動車の無謀なところで、1962年にはこのデザインのクーペとコンバーチブルを発売してしまいます。
もちろんプリンス自動車もこのスカイライン・スポーツが売れるとは思っておらず、一種のイメージリーダー的な位置づけだったのだろうと思いますが、数台のショーモデルを造ることと、例え少量生産であっても市販することは全く別物で、大幅な赤字であったろうことは想像に難くありません。

そして現実的な量産モデルのスカイラインはフルモデルチェンジされこのS5型となります。1963年に発表されたこのスカイラインは上級モデルをグロリアに任せて、小型(1500cc)ファミリーセダンに特化したモデルとして発売されます。
しかし、1964年に日本グランプリに出場するためにフロントを無理やり延長して、グロリア用の直列6気筒エンジンを搭載したホモロゲーション用に100台のみが製作されたS54型の活躍がその後のスカイラインの運命を決定付けることになります。
それはどうみてもボディ全体のバランスを崩していたのですが、かえってそれが格好良く見え、そしてレースの活躍がスカイライン全体のスポーティイメージを根付かせることになります。
しかし、プリンス自動車の利益体質は改善されずに、自動車業界の国内での不毛な競争を避け、輸出産業として発展させたいと考える国策も加わり、プリンス自動車は1966年に日産自動車に吸収合併されることになります。
この辺りの合併の経緯がその後の日産社内でのプリンス出身者との確執を生むことになるのですが、方や吸収される側のプリンスにして見れば、会社経営が傾いて倒産寸前になったワケでもなく、技術的に他社に遅れをとっていたワケでもない(むしろ優れていた)自分達が日産に吸収合併されるのは、ひとえに会社規模が小さかったことと、国策により決められたことであり、心情的には「仕方がないから行ってやる」的な感情を持っていたことに対して、受け入れる側の日産にとっては、「拾ってやった」という感情があり、その双方の感情のもつれがその後の日産の社内で延々と引きずられることになってしまいます。
倒産寸前に国営化され、それも限界が来てフィアットに「拾ってもらった」アルファ・ロメオですらフィアットに対して技術的な優越感は持ち続けていたのですから、プリンス自動車の、特にエンジニアにとっては日産のエンジニアはシロート集団に写ったとしても仕方なかったでしょう。

そんな中の1968年に三代目となるC10型のスカイラインは日産スカイラインとして発売されます。もちろん開発はプリンス自動車時代から行っており、そのプロジェクトをそのままプリンスのスタッフが担当する形で開発されたのがこのC10型で、エンジンも旧プリンス製のG15型4気筒エンジンを搭載していました。

しかし、少し遅れて発表された先代と同様に6気筒エンジンを搭載しているGTモデルは、初めて日産製のL20型エンジンが搭載され、プリンス-日産の混血となりました。そして誰もが認めるGT-Rの活躍に繋がって行くことになるのです。
あまりにGT-Rの印象が強く、スカイラインのスポーツイメージを形成してしまったのがこの三代目のスカイラインなのですが、それは両刃の剣となってしまいます。レースでの活躍を市販車の広告宣伝に結び付けて販売を伸ばすというやり方は多くの自動車メーカーが採用してきた手法ではありますが、一方で活躍すればするほどモデルチェンジが難しくなり、次期モデルもそのイメージからモータースポーツから引けなくなってしまうのは、後のLANCIA Deltaの事例でも明らかです。
しかし、日産は見事にこのC10型を引きずることなく、通常ルーティンの4年という販売期間でフルモデルチェンジを行います。それは単に会社の英断ではなく、プリンスの設計思想が色濃く残るこのC10型にはやく退いて欲しかったのではないかと思われるのですが、こうして「惜しまれつつ」C10型の販売は終了することとなります。

こうして四代目のスカイライン(C110型)が1972年に発表されます。その後のスカイラインのデザインアイコンとなるサイドのサーフィンラインと呼ばれる窪みは、この四代目のスカイラインのデザインで初めて意識されてデザインモチーフとされました。そして通常のモデルは4気筒エンジンを搭載し、GTは6気筒エンジンを搭載するという「ルール」が踏襲されるのですが、このモデルからようやくシャーシーは日産ローレルと共通化され、1975年のマイナーチェンジ以降はそれまでのプリンス系エンジンのG16、18型から日産製のL型エンジンに変更されることにより、日産はようやくスカイラインをプリンスから「手に入れる」ことに成功しました。
一方で、この四代目により「スカイラインの呪縛」が完成されてしまいました。その呪縛とは、スカイラインたるもの・・・というユーザーイメージで、ボディサイドのサーフィンライン、GTは6気筒エンジン、GT-Rはレースには出場し勝たなければならないというもので、それが後に日産を苦しめることとなってしまうのです。

五代目のスカイライン(C210型)も通常のモデルチェンジサイクルに従って1977年に発表されましたが、スカイラインだけでなく自動車は排気ガス規制という新たな技術開発テーマに直面します。
スポーティイメージが強いスカイラインのようなモデルにとってこの排気ガス規制をクリアする高出力エンジンがないことは痛手で、スカイラインもGTのスポーティイメージ確保に苦慮します。
結果として日産が選択したのはターボチャージャーで、モデルチェンジには間に合わなかったものの、マイナーチェンジとしてターボチャージャーを搭載したモデルを追加してその面目を保つことに成功しました。しかし、当時の日本車全般に言えたのですが、この排気ガス規制によるエンジンの出力ダウンは避けられず、総じてクルマは「走らなく」なってしまいます。
そしてファンが待ち望んでいたGT-Rというモデルは封印されることになります。

1981年にモデルチェンジされた六代目(R30型)もまだ排気ガス規制のマイナスを跳ね返せずにいました。
スカイラインのGT系が搭載するL型6気筒エンジンはターボチャージャーを搭載したとしても性能的には限界に来ており、市販車として排気ガス規制をクリアしながらこれ以上の出力アップは難しくなっていました。
そこで搭載された新たに開発されたFJ20型4気筒エンジンはターボチャージャーを装備してようやく6気筒のL型エンジンを凌ぐパフォーマンスを獲得するのですが、GTは6気筒エンジンというルールを破ったことになり、その「最強の」スカイラインもGT-Rとは呼べず、GT-RSという何とも歯切れの悪いネーミングを与えられることになりました。
しかし、一方で日本の各メーカーがマイナスイメージを危惧して遠ざかっていたレースに復帰することにより、スカイラインの定義?の一つは満たすことができたのがこのR30型の功績でした。

それは1982年に当時のグループ5規定に合わせたレーシングカー「スカイライン スーパーシルエット」を投入したことで、ハードトップ2000RS(KDR30型)をベースに、車体の一部をパイプフレームとするノバエンジニアリング製のシャシーに、大型のフロントスポイラー、およびリアウイングを備えるムーンクラフト製のカウルをまとい、「RS」のイメージカラーである赤/黒の2トーンカラーで登場させました。
搭載するエンジンは新型のFJ20ではなく、サファリラリーなどで使用された「バイオレット」に搭載されていた直列4気筒DOHC LZ20B型にエアリサーチ製T05Bターボチャージャー、およびルーカス製メカニカルインジェクションシステムを組合わせ、 570ps/7600rpm、55kgm/6400rpmというパワーを絞り出してはいましたが、それは市販モデルにフィードバックされることのないレース用のスペシャルエンジンに過ぎませんでした。
ともあれ、ユーザーはこのスカイラインのレース復帰を歓迎し、スーパーシルエットというカテゴリーは日本でのツーリングカーレース人気再燃のきっかけとなりました。

そして七代目のスカイライン(R31型)が1985年に発売されるのですが、最大のポイントはようやく新世代の6気筒エンジンが搭載されたことで、GT系に新たにRB20型の直列6気筒エンジンが搭載されました。
またこの時代は様々な電子デバイスが試された時代で、このR31型には日産が開発した4輪独立操舵システムであるHICASを搭載していたことも特徴の一つです。
レース用では1987年にグループAホモロゲーション用に800台が販売されたGTS-RがGT-Rとしての資格をようやく満たすモデルであり、ファンはGT-Rと呼んで欲しい・・・と思っていたそうなのですが、そのインターTECレースでの活躍にも関わらず、まだGT-Rはお預けとなってしまいました。
あとは皆さんご存知の通り1989年に発売された八代目スカイライン(R32型)においてGT-Rは見事に復活を遂げ、C10型スカイラインの歴史を塗り替え、GT-Rと言えばR32と呼ばれるようになりました。
長らくお伝えして来ましたが、ノスタルジックカーショーのようなイベントは単に「懐かしい~」と当時の憧れだったクルマや自分の愛車に逢いに行くのも良し。こうして自動車の歴史をその人なりに感じるのも良し。そして誰か解説員を仕立ててその解説員の拘りに耳を傾けるも良しと、様々な楽しみ方ができるイベントだと思います。
機会があれば出かけて見てはいかがでしょうか。今回は我慢しましたがマーケットだけでも抜け出せなくなるかも知れませんよ。
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「滝レーシングチーム」という名前をリアルに知っている世代はすでにかなりな年輩ではないかと思います。
それは、故滝進太郎氏が設立したプライベートなレーシングチームでした。実業家としてスーパーマーケットを経営し成功していた彼は1964年に個人的な趣味であったモータースポーツにのめり込み、当時最新鋭マシンであったロータス・エラン26Rを購入して、始まったばかりであった日本グランプリに出場し大活躍をします。その後に彼が購入したのはポルシェ・カレラ6で、当時の日産R380に対抗するにはこのクルマしかない・・・と目をつけたマシンでした。
現在のGT選手権以上にメーカーの威信をかけて争われていたのが当時の日本グランプリで、日産がミッドシップのR380を生沢徹のドライブで投入したのに対して、滝進太郎はポルシェから購入したままの「吊るし」のポルシェ・カレラ6で挑みます。
当時の技術では日本はまだまだヨーロッパに遅れを取っており、会社が総力を挙げて開発し、チューニングしたR380に対して、市販状態(もちろんコンペティションベースではありましたが)のポルシェ・カレラ6は互角以上の戦いをし、1967年の鈴鹿1000kmレースでは総合優勝を勝ち取ることになります。
しかし、彼の手腕が本当に発揮されたのは、レーシングドライバーとしてではなくチームマネージングで、現役を引退した後に設立した滝レーシングチームは、ワークスとして会社の経費で運営されていた日産やトヨタなどと異なり、日本で初めてスポンサーからの資金により運営されるプライベーターとして成立したレーシングチームでした。

こうしたプライベートチームがメーカーワークスチームに伍して戦うためには、優秀なマシンとドライバーが必要で、滝レーシングチームはそれまでのカレラ6に加えて、カレラ10、そしてこのローラT70といった当時の最新鋭マシンを投入します。ドライバーも生沢徹、酒井正、長谷見昌弘といった当時のトップドライバーと契約し、まさにサーキットを暴れまわるのですが、子供の頃の私は周囲が「日本対外国」という対決図式で見ていたのに対して、純粋にそのレーシングカーの形に注目しており、性能がどうのとかドライバーがどうの・・・といったマニアの能書きを他所に、フロントにシェブロンマークを書き、車高が低いこのローラT70のスタイルに参ってしまっていました。

つまり、他のクルマに比べて段違いに「格好良かった」のがこのローラT70で、その鮮烈な印象はずっと残っていたのです。写真でも見えますが、そのスポンサーの一つが田宮模型で、実際にモデル化されたLOLA T70は子供が買えるお値段ではなく、指を咥えて見ているしかなかったのですが、近年再販されたことからも、私のような根強いファンがいることの証ではないかと思います。

ローラは建築会社で働く普通のサラリーマンであったエリック・ブロードレイにより設立されたメーカーで、趣味が高じて・・・というパターンなのですが、このT70はライバルが鋼管チューブラーフレームであった時代にアルミ製ツインチューブ・モノコックシャーシーを採用しており、ライバルに差をつけていました。最初に日本のレースに出場したT70はアメリカのCan-Amレースで酷使された後の中古だったのですが、それでも最新鋭の国産マシンと互角に渡り合えたことは日本の技術と欧米の差がまだまだ大きかったことを思い知らされる状況でした。

エリック・ブロードレイはキャロル・シェルビーと共にフォードのル・マン参戦に協力し、GT40の開発に加わったことでも有名で、GT40の面影をこのT70にも見ることができます。

デモ走行は限られたコース内であったためにキャブレターがカブってしまい、相当苦労をされていたようでした。
できればせめてメガ・ウェブのコース程度を走って欲しかったと思います。
そしてその隣にはローラT70を制して1968年日本グランプリで優勝した日産R381が展示されていました。

日産R381は当時のFIA規定のグループ7カテゴリーに属するスポーツプロトタイプと呼ばれるレーシングカーでした。設計はスカイラインを設計した故桜井眞一郎氏で、鋼管パイプフレームにアルミハニカムパネルという構造でした。

100%純血の国産マシンと思われているR381ですが、残念ながらエンジンは開発が間に合わず、シボレー製の5.5L V8エンジンを搭載していました。ということは、エンジンはLOLA T70と同じ(実際は5.5L、5.8L、6.3Lの三種)で、日本人が熱狂したこのレースはボディは違えど、アメリカのCan-Amレース用にチューンされたアメリカ製のV8エンジン同士で争われていたことになります。
これまでご紹介したクルマが日本グランプリで活躍したクルマであることに対して、こちらはル・マン24時間レースでの優勝車です。
残念ながら、日本グランプリと言えども、当時の欧米のレベルからすると草レースのようなものであったことに対して、こちらは正真正銘、日本のクルマが世界を制したと言えるマシンです。

MAZDA 787Bは1991年のル・マン24時間レースにおいて総合優勝を果たしたクルマで、これは日本メーカーにとって初、そして日本メーカーとして唯一の総合優勝であることに加えて、ロータリーエンジン車として世界初の総合優勝でした。また、カーボンブレーキ装着車として初めてル・マンを制したマシンで、これだけの「初」づくしであることからも自動車史に残る名車として、日本のファンだけでなく、世界中のレースファンからも人気のあるモデルです。

他のライバルチームをして、「自分達のチームの次に勝たせたかったチーム」と言わせたほど、マツダのエンジニアが、参加車唯一のロータリーエンジンと永年にわたり苦闘し、マシンを熟成させル・マンに挑戦し続けたことは評価されており、MAZDAチームが総合優秀を決めたときにはライバルチームがこぞって祝福のためにピットを訪れたと言われています。
残念ながらLOLA T70以外の2台のデモ走行はありませんでしたが、787Bに関してはいつかそのR26Bロータリーエンジンの音を生で聞いてみたいものです。
ノスタルジックカーショーの会場では、このように誰もが知っている名車を間近に見ることができるのが魅力なのですが、一方で珍車に出会えることも楽しみの一つで、前回ご紹介したAPOLLO 3500GTに加えてもう一台の珍車がこちらでした。

この写真から車名を言い当てられる方は相当のマニアだと思います(苦笑)。

これは八王子にあったカロッツェリア・ワタナベという「工房」がホンダS600をベースに製作したグリフォンというクルマです。

このクルマが製作された1970年当時は規制が厳しく、このような「改造車」にナンバーを取得するのは至難の技だったとのことです。

ボディはグラスファイバーで造られており、専用のアルミホイールやウインドウなど全て、リデザインされています。
最初に造られた2台はフライング・ペガサスという車名で、モービル石油のCMや「電撃!!ストラダ5」という特撮ヒーロ番組に出演した後に、量産型として一部デザインを変更したものが「グリフォン」として発売されたそうです。

そのお値段は車両持込で改造費用が150万円。納期は6ヶ月であったとのことですから、当時の物価からすると高額で、最終的に何台改造されたのかは定かではありません。
デザインそのものはZAGATOデザインのアルファ・ロメオJr.Zの影響が見て取れますが、日本でもこうしたカロッツェリアが存在していたことは記憶に留めておくべきだと思います。
会場ではスカイライン生誕55周年ということで、歴代のスカイラインが展示されていました。次回はそのスカイラインをご紹介したいと思います。
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ノスタルジックカーショーの本来のメインは国産旧車で、まさに「ノスタルジック」なのですが、今回は少し傾向が異なっており、これまでお知らせしたスーパーカーとアメリカ車の展示が多く、相対的にそれ以外の車種は低調という印象でした。
ヨーロッパ車の展示は少なかったのですが、その中で頑張っていたのはこの出展社でなかなか魅力的な車種を展示していました。
現実的に「買える」ベック550Spiderです。ポルシェのレプリカですが、実物のお値段は一般人に買えるようなお値段ではありませんので、このレプリカは日本でも多く輸入されました。

途中合流した友人の笹本氏は相当ハマっており、「冷やかし」の商談ではなく「半マジ」の商談をしていました(苦笑)。

素晴らしいコンディションのLANCIA Fulviaでした。ラリーチューンなど一切されていない「吊るし」のフルヴィアで、貴重品のホイールセンターキャップもピカピカでした。

爆安価格のALFAROMEO 2600 Sprintです。右ハンドルで伊藤忠モータースが唯一正規で輸入した個体で、ずっと伊藤忠モータースの社長の許にあったそうです。現在はサーキット仕様に改造されていますが、オリジナルパーツは全て揃っているとのことで、現状渡しでのお値段でした。そして元に戻すのであれば結果として「それなり」のお値段となるとのことでしたので、ようやく納得?できました。

不可解だったのがこのリアに貼られたコンレロのエンブレムで、2600Sprintにコンレロが関わったのでしょうか?謎です・・・。

これもミントコンディションのAUTOBIANCHI A112 Abarthでした。昔は街中で結構見かけたのですが、最近は殆ど見かけなくなってしまいました。欲を言えばこうした展示会に持ってくるのであればAbarth仕様ではなく、Eliteと呼ばれた通常バージョンなんかが展示してあると、思わず「逝ってしまう」方が出るような気がします(苦笑)。

これまた美しいFIAT X1/9でした。恐らくカンパニョーロのホイールを除けばオリジナルコンディションだと思うのですが、私にとっては駐車場で見た個体の印象が強すぎました。



これは珍車でした。上の三枚の写真からこのクルマの名前を素性を言い当てられる方がいらっしゃるでしょうか・・・。
私も初めて見たのですが、こんなクルマに出会えるのがこうした展示会の醍醐味です。

このクルマは1962年式のAPOLLO 3500GTというもので、説明によるとアメリカのインターナショナル・モータースという会社がイタリアのインターメカニカ社に発注し、88台製造したものだそうです。
外観はフロントがフェラーリ275にリアがジャガーE-Typeと、何となくアメリカ人の好きなヨーロッパ車の格好良いところを継ぎ接ぎしたような外観です(笑)。
エンジンはビュイックのアルミ製V8エンジンを搭載しています。
ゲテモノと切り捨ててしまえばそれまでのクルマなのですが、何となく全体としては纏まっており、不思議なクルマでした。

私達の世代にとって懐かしいのがタイサン-スターカードのフェラーリF40です。



もちろん売り物ではなく純粋な展示車だったのですが、レース出場時の状態のまま保存されているようで、接触の跡など生々しい状態で保存されていました。
最後は自走で会場を出て行ったのですが、おそらくローダーが待機しているのでしょう。

ポルシェは台数はそこそこあったのですが、どうも影が薄かったように思いました。こうした会場では展示の方法やボディカラーなども重要なのかも知れません。

少し前まではこうした展示会での最大派閥であったMiniはこの老舗の出展社のみでした。それでも根強いファンがいるのがこのMiniで、BMW-Miniがオリジナルデザインだと思っている若者がいる現在の状況からすると、もっとこうしたイベントなどを通じて世間に露出して欲しいクルマです。

こちらもメンテナンスガレージの老舗ですが、MG-TDという渋いクルマを持ち込んでいました。このお店のスタンスは車両の展示・販売というより相談の受付で、お店まで訪ねなくても様々な相談ができるのもこうしたイベントでのメリットだと思います。

ひっそりと売り物として置いてあったCITOROEN DS Wagonです。DSのワゴンモデルには商用車(コルメシアル)と後列にジャンプシートを追加したブレーク、そして8人乗りのファミリエールがあるのですが、この個体がそのどれであるのかをチェックするのを忘れました(苦笑)。いずれにしてもフランスが実用車を作るときは徹底的にやるために、このDSワゴンは自分の目的に合うと究極のクルマになるでしょう。
そして今回のイベントの目玉である展示車がこのLOLA T70でした。

私達よりも少し上の年代の方にとって滝レーシングチームのローラT70ほど記憶に残るレーシングカーはないのではと思います。次回はこのローラT70のお話から始めたいと思います。
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中断してしまいましたが、再びノスタルジックカーショーの会場に戻りましょう。
最近の流行なのか、それともたまたまなのかは定かではありませんが、今回の会場での最大派閥?はいつもの国産旧車ではなく、アメリカ車でした。
確かに、50年代から70年代のアメリカ車は根強い人気があり、特にMOPARと呼ばれるスポーティカーは日本だけでなく本国でも多くのマニアが大切に維持しているのですが、それでも人気には波があり映画や雑誌の影響か、盛り上がったり下火になったりを繰り返しているような気がします。
そんな中にあって現在はと言うと、「盛り上がっている」ほうの時代に入るのではと思います。その理由はやはりリバイバルカーの影響で、アメリカの各メーカーが当時の車名とスタイリングをベースにした新車を発売すると同時に、そのベースとなったオリジナルモデルに脚光が当たり、相乗効果で売れているようです。

PLYMOUTH Cudaです。個人的には1970年以降のダッジ-クライスラーのBプラットフォームと呼ばれたそれまでのボディよりも全長が短く、幅が広いボディを持つクーペが大好きです。一番好きなのはDODGE Challengerなのですが、残念ながら会場で見ることはできませんでした。

こちらは同じくクライスラー系列のDODGE Chargerです。NASCARと呼ばれたストックカーレースに出場して大活躍したモデルで、そのカラフルなボディとスポンサーステッカーは子供の頃に見て衝撃を受けたことを憶えています。

やはり一番人気なのは一連のFORD Mustangのラインアップで、こちらは珍しいBOSSです。Mustangの中でもレースホモロゲーション用に開発されたモデルです。

映画などでも有名なのがこのMustang Mach 1というモデルで、この個体はその最高峰とも言える429cu.in.のV8エンジンにラムエアチャージャーを搭載したモデルで、1971年の1年間のみ生産された希少モデルです。そして「売約済」の札が下げられていました(苦笑)。

とにかく会場ではMustangの展示車が多く、アメリカ車は年式によって細かい差異があるために見ていて飽きません。現在のMustangは随分と過去のイメージをうまくリデザインしていると思いますが、やはりオリジナルデザインに勝ることはできないことを再確認できました。

アメリカン・グラフィティの世界を堪能できるのがこのCHEVROLET Bel Airではないかと思います。特にこの初代のベル・エアはそのサイズも手頃で、1950年代のアメリカ車のデザインエッセンスが詰まったクルマだと思います。


私のとってベル・エアのイメージはこの個体で、スカイブルーとホワイトのツートーンが一番似合っていると思います。もちろんそれはカリフォルニアの太陽の下になければならず、自分で所有するのはあまりに気恥ずかしいのですが、この展示車は素晴らしいコンディションでした。


アメ車と言えばピックアップ・・・という方も多いのではないかと思いますが、今回の展示車の中では殆ど見かけませんでした。唯一の展示車?がこのDODGEのモデルで、残念ながらその内容については良く分からないのですが、そのスタイリングは異彩を放っていました。

アメ車はどーも・・・という方でもコブラが嫌いという方はいないのではないでしょうか。とかく曲がらない、パワーだけ、大味などと評されるアメリカ車のスポーツカーの中にあって、このコブラだけは別格扱いで、その暴力的なパワーもイギリスのAC Aceをベースとしているために認められているようです。しかし、その感覚はアメリカ人にとっても同様で、ヨーロッパ車のコンパクトなボディにアメリカ製のハイパワーV8を搭載したら・・・という単なるクルマ好きの考えそうなコンセプトから生まれたのがこのSHELBY Cobraです。


コブラと言えば殆どの方がこの427コブラを思い浮かべるのではないでしょうか。確かに初期の289ユニットを搭載したスリークなボディではなくこのグラマラスなボディの方が迫力があることも確かだと思います。
しかし、究極のコブラはこの427ではなく、こちらです。

SHELBY Daytona(Cobra Daytona Coupe)と呼ばれているのがこのクーペです。
デイトナ・クーペはシェルビーがル・マン24時間レースでフェラーリに勝つために開発し、たった6台のみが製造されたレーシングモデルです。
そして1964年のル・マンではフェラーリ250GTOを制して優勝したのですが、仮に売り物があれば、フェラーリ250GTOよりも高値がつくほど貴重なクルマです。

実はこの展示車はその6台の内の1台ではなく、SHELBYによって再生産されたリプロダクションモデルです。
ご存知のようにこれまでもコブラは様々なメーカーがレプリカを製作して来ました。それは外見だけコブラに似せたものから、忠実にコブラを複製したものまで様々だったのですが、SHELBY社が新たに再生産を始めると、その由緒とクオリティから他のレプリカモデルを淘汰してしまいました。

今回SHELBY Asia社が持ち込んだ各モデルは、もはやレプリカというレベルではなく、再生産モデルと言って良いクオリティでした。ちょうどロータス7とケーターハムの関係と言えば分かりやすいでしょうか。それは当時のコブラをベースに近代化を加えたモデルで、スーパー7と同様にコブラというクルマがある種エバーグリーンな魅力を持っていることの証ではないかと思います。

その中にあってこのDaytona Coupeの出来栄えは素晴らしく、「本物」を手に入れることが実質上不可能な今にあっては、限りなく「本物」のDaytona Coupeを現代の公道でドライブすることができるこの展示車は、ひょっとしたら本物以上に魅力的かも知れません。

エンジンはフロントミッドシップに収められているところも実車に忠実で、このクルマが何かを妥協したレプリカではなく、まさに再生産(リプロダクション)モデルであることが分かります。

ホイールも現代のタイヤを履きこなすためにインチアップされていますが、ちゃんとハリブラント製のマグネシウムホイールを再現しています。

ラジエーターの熱はエンジンルームには流れずに外部に放熱されるようになっているところもオリジナルと同じです。

コクピットは一番近代化されている部分だと思います。それでもメーターの配置などは極力オリジナルに忠実に配置されています。

こうして細部を見ていただくと、このクルマが市井のレプリカメーカーによるモデルではなく、オリジナル以上のクオリティを持ちながら、オリジナルに忠実に製作されたモデルであることがお分かりいただけるのではと思います。
仮にオリジナルがあったとしても、それを現代の公道で走らせることは叶わないでしょうから、このリプロダクションは当を得ていると思います。
個人的には今回のBest of ShowがこのDaytona Coupeでした。正直・・・欲しいです(笑)。
続いて意外に少数派であったヨーロッパの旧車をご紹介しましょう。
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スーパーカーと言えばこのクルマでしょう。
恐らく、子供からオトナまで・・・そして、現代の目で見てもナニモノとも違うそのスタイリングはやはり永遠のスーパーカーとしての資質を持っていると思います。
そのLAMBORGHINI Countach LP400もミウラと同様に全て御開帳して展示されており、そのコンディションはミウラ以上に素晴らしいものでした。


カウンタックはその後にマイナーチェンジされ、最終的にはオーバーフェンダーやリアウイングなどが装備されたアニバーサリーという最終モデルも展示されていましたが、やはり一番美しいのがその初期モデルであることが良く分かります。


エンジンルームもご覧の通りです。それは単に磨き上げただけのものではなく、きちんとメンテナンスされたメカニズムが持つ美しさで、このカウンタックもきっとナニゴトもなく走るのだろうと思いました。

こちらはLANCIA Storatosでそのスタイリングからスーパーカーと呼ばれ、その括りで見られていましたが、WRCラリーに参戦するために造られた"Purpose Built"カーで、スーパーカーとはちょっと違うと思います。

ストラトスのロードゴーイングモデルはあくまでグループ4規定の「連続した12ヶ月に400台を生産したモデル」という条件をクリアするために製造されました。

しかし、実際は搭載するDinoのV6エンジンの供給が途絶えがちで、その製造は遅れて、本当は400台も生産されていないのではないか・・・と疑われているのですが、1974年にようやくホモロゲーションを獲得し、それ以降このストラトスはWRCで快進撃をすることになります。

この個体も全てに手が入っており、当時のランチアが手を抜きまくったストラトスのロードゴーイングモデルの「後始末」をちゃんと行っていることが窺われます。

FERRARIがミッドシップに移行する過渡期のモデルがこの330GTCで、現在のフェラーリ主力モデルがまたフロントエンジンに戻っていることから、「静かに」人気が上がってきているモデルです。

330GTCはあくまでGTで、この個体のような渋いカラーが似合います。日本もそろそろフェラーリは「赤」から卒業しつつあるのは喜ばしいことだと思います。
そのご近所には違う業者がスーパーカーを並べていたのですが、これらのクルマが「ノスタルジックカー」か・・・と言われるとちょっと違うのではと思いました。

私にとってFERRARI F50はノスタルジックでも何でもないのですが、考えて見れば発売は1995年ですから、もうすぐ20年!。歳は取りたくないものだとしみじみ思ってしまいました。

とにかくこの一角はスーパーカーショーと化しており、それ以外の展示スペースとは完全に雰囲気が異なっており、ある出展者が「あのクルマ達が来るのはおかしい」とボヤいてました。
私達見学者にとっては一度に見ることができるのは有難いことだと思っていたのですが、聞けば、出展者にとってはゆっくりと持って来たクルマについて話をしようと思っても、派手な爆音は迷惑なこともあるのでしょう。

FERRARI ENZOも御開帳されていました。ミニチュアモデルでしか御開帳シーンを見たことがなかったので、写真を撮りまくってしまいました。



こうして見ると、このクルマがF-1をベースに開発された2座のクーペであることが良く分かります。というかメカニズムはまんまF-1でした。

PAGANI ZONDA!です。私は名前だけは知っていたのですが、実物を初めて見ました。

このリアビューを見ると、良いとか悪いとかいう評論は不要で、ただただ凄いとしか言い様がありません(苦笑)。

JAGUARもインポーター?が車両を持ち込んでいました。新旧のXKを並べて展示する・・・というコンセプトは分かるのですが、見学者の目はE-typeばかりに行ってしまい、新型車の方は殆ど見向きもされていませんでした。

今回の会場で一番大掛かりな造作をして臨んでいたのがVWで新しいBeetleを展示していました。前作のビートルがデザインアイディアをそのまま商品化したら「売れてしまった」コトに対して、今回のビートルは「真剣に」デザインされており、初代ビートルに似ている必要はないのでは・・・と思わせるクオリティでした。きっと売れるんでしょう(苦笑)。

さて、ようやく心を落ち着けて本来のノスタルジックカーの世界に入って行きたいと思います。
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