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走ってナンボ

アルファ・ロメオを始めとする「ちょっと旧いイタ車」を一生懸命維持する中での天国と地獄をご紹介します。

遠すぎた橋 ~A Bridge Too Far~

A Bridge Too Far

これまでの記事で、戦争においていかに兵站が重要であるかをご説明してきました。そして「世界一贅沢な軍隊」と呼ばれた米軍が、いかにこの補給を重要視していたかをご紹介したのですが、今回はこの米軍(連合軍)が、その補給路を確保するためにその補給を軽視して行った作戦についてご紹介したいと思います。
その作戦とはノルマンディ上陸作戦の後に、ヨーロッパ大陸で実行された「マーケット・ガーデン作戦」と呼ばれる空挺部隊と陸上部隊のコンビネーションによる複雑な大規模作戦で、その作戦を描いた映画が今回ご紹介する「遠すぎた橋(A Bridge Too Far)」です。

1944年6月6日、ナチスドイツによって占領されていたヨーロッパ大陸に対して行われたオーバーロード作戦と呼ばれる大規模な反抗計画がノルマンディ上陸作戦でした。300万人近い兵員をドーバー海峡を渡ってフランスのノルマンデイに上陸させ、そこから占領下のフランスを解放し、ドイツ本国に進撃して行くというのがこのオーバーロード作戦の目的だったのですが、当時のドイツは対ソ戦のバルバロッサ作戦と呼ばれる侵攻作戦で多くの兵力をロシア戦線に振り向けており、米・英・カナダの連合軍の反抗作戦はまだ先だと思われていたのです。
日本人の感覚からするとせいぜい瀬戸内海を渡って四国に侵攻する程度の距離でしかないドーバー海峡を、これだけの大部隊が気づかれずに渡るのは至難の技であったのですが、絶妙な天候の時期と様々な陽動作戦、そして徹底した緘口令により、最後までドイツ軍は何らかの上陸作戦が計画されていることを察知していながら、その上陸地点を特定できずにいたために、ノルマンディの海岸に連合軍の上陸を許してしまいます。

そしていよいよ大陸での連合軍の反撃作戦が始まったのですが、ここで問題となったのが兵站補給ルートでした。フランスの港湾を確保した連合軍はその補給物資を陸揚げすることはできたのですが、そこからヨーロッパの深部へ進撃する部隊への補給ルートは延びる一方で、上陸後の3ヶ月で600kmにまで達していました。しかもドイツ軍の占領地域を「面」で制圧しようとすると時間がかかり、「線」で制圧し機甲部隊を進撃させると、側面からの反撃に逢い、補給路と退路を絶たれる恐れがあったのです。
そのリスクを考えると進撃のスピードは遅くなるのですが、確かに周囲の都市を開放しながらの進撃は政治的にも必要な作戦であることに対して、ドイツ軍の組織的な反撃を早期にアキラメさせるには、一刻も早くドイツ国境までイッキに進撃し、フランスに残ったドイツ軍の退路を断つことにより、占領国に駐留していたドイツ軍を個々に分断し、その後にじっくりと面での占領開放を進めれば良いと考える米軍と、長引く戦争をなるべく早期に終結させたいと考える英軍との間に勃発した補給物資の奪い合いから立案されたのがこのマーケット・ガーデン作戦だったのです。

MG作戦図1

当時の米軍の最前線での作戦指揮を取っていたのが米陸軍第三軍を率いるパットン将軍で、連合軍司令部の持つ上記のジレンマなどどこ吹く風で、彼はとにかく南方ルートを一気に進撃し、ベルリンになだれ込むことを目標としていました。パットン将軍にとって最大の悩みは補給ルートで、進撃すればするほど補給ルートは長くなり、周辺を完全に掃討することなくどんどん進撃したために、その補給ルート上で、分散的ではあったもののドイツ軍の抵抗を受けることもあり、レッドボールエキスプレスと呼ばれたトラック輸送部隊を最優先で、前線まで補給物資を運ばせていたものの、本来であれば安全に走行できるはずの補給ルート上で、そのトラックが攻撃を受けることもあり、燃料を始めとする補給物資が届かないことにより進撃のスピードが停滞することに業を煮やしていました。

一方で北方ルート、すなわちオランダからライン川を渡りドイツ国境に侵入しようと考えていた英軍のモントゴメリー将軍との間に補給物資の「奪い合い」が勃発してしまいます。連合軍最高司令官で米・英・カナダ軍を始め自由フランス軍、ポーランド軍などを統括していた米軍のアイゼンハワー将軍は単に作戦上の決定だけでなく、誰に(その国に)解放の手柄を渡すか・・・という複雑な政治的な判断をも迫られることになります。
例えば戦後を見据えたときにはフランス、特にパリの解放は自らの手で・・・と主張する自由フランス軍のド・ゴール将軍の主張も政治的には考慮すべきことでしたが、それはノルマンディ上陸作戦以来、多くの犠牲を伴いながら進撃してきた米英軍にその栄誉をド・ゴール将軍に譲れと命令することでもありました。

一方の英軍のモントゴメリー将軍は北アフリカ戦線で、ロンメル将軍率いるドイツのアフリカ軍団を打ち破ったイギリスの国民的英雄であり、表面的な戦術的判断ではなく、米軍のパットン将軍と英軍のモントゴメリー将軍の進撃レースは、司令部はどちらを優先するのかという連合軍内部の政治的なジレンマになってしまっていたのです。

MG作戦図

そんな中で、業を煮やしたモントゴメリー将軍が立案したのがこのマーケット・ガーデン作戦でした。それは空挺部隊により進撃路にある5つの橋を占領することにより、一気に地上部隊を進撃させ、新しい補給ルートを確保しドイツ国境を突破するという作戦で、モントゴメリー将軍にとってはパットン将軍との物資争奪戦に終止符を打ち、進撃レースに勝利するためには必要な作戦でした。

ところが、この作戦はあまりに複雑、かつ予測不可能な要因で作戦全体の成功が左右される極めてリスキーな作戦でした。しかし、仮にこの作戦が成功すれば、パットン将軍の進撃ルートよりも早く、英軍がドイツ国内に侵入することが可能となり、1944年のクリスマスまでには戦争を終結させることのできる可能性を秘めた作戦だったのです。珍しく、連合軍が希望的観測に基づくベストケース・シナリオをベースとした作戦を立案した背景には、連合国各国の手柄争いという政治的な背景と、パットン対モントゴメリーという個人的な功名争いという、戦術的合理性に基づく作戦計画とは異なる次元の要素が影響していたのです。

Paratroop.jpg

空挺部隊はその携行する装備が限られるとともに、投入する兵員と物資が全て無事に降下できるとは限りません。それは地上からの迎撃であったり、当日の天候により着地地点が分散してしまったりと、不確実的な要素が大きく影響します。またこの作戦はその降下地域に反撃するドイツ軍が殆どいないという前提に立っており、事前の写真偵察や地元のレジスタンスからの情報で、その地域にドイツ軍の精鋭部隊が再編成のために駐屯している可能性があることを知っていたにも関わらず、強引に作戦を強行してしまったことにあります。予定通り、地上軍が占領した橋を渡って進撃したとしても、限られた物資でその到着まで橋を確保しなければならない空挺部隊の隊員にとっては、一日の遅れが命取りとなるギリギリの作戦なのですが、この楽観的で功名心から生まれた作戦は強行されてしまったのです。

この記事は映画のご紹介ですので、作戦の結末は映画を見ていただければと思うのですが、この映画は1977年に英仏合作で制作されたものです。原作はノルマンディ上陸作戦を描いた「史上最大の作戦(The Longest Day)」で有名なコーネリアス・ライアンによる「遥かなる橋」で、「史上最大の作戦」も映画化され、名画として有名であるのはご存知の通りです。
コーネリアス・ライアンは作戦全体を綿密なリサーチに基づいた個々の象徴的なエピソードを交えて描写する技術に長けた作家で、この「遠すぎた橋」もその原作を基に作戦の全容とその問題点を上手く抽出して描いています。
出演した俳優陣も錚々たるもので、ロバート・レッドフォード、ジーン・ハックマン、マイケル・ケイン、ショーン・コネリー、アンソニー・ホプキンスといった名優が顔を揃えており、その配役も実に適役だと思います。
監督はリチャード・アッテンボローで「紳士同盟」や「大脱走」といった作品に俳優として出演した後に映画監督となり、この作品のほかにも「ガンジー」、「コーラスライン」などの作品を手がけた名監督ですので、映画としても駄作となる要素はありません。

しかし、私はこの映画を「超大作戦争スペクタクル」と形容するには少し抵抗があります。「史上最大の作戦」は確かに超大作戦争スペクタクルという表現が適当かと思いますが、この作品で描かれているのは作戦成功に疑問を持ちながらも命令であればと出撃して最善を尽くそうとする空挺部隊の指揮官や、その指揮官を信頼し最後まで堂々と戦う兵士達、そして占領するドイツ軍から解放されるとは言え、自宅が戦場となり愛する家族を失うオランダの人々の苦悩で、そこには第二次大戦のヨーロッパ戦線における連合軍作戦史の汚点と言われるこの作戦の悲劇だけでなく、戦争そのものの本質が描かれています。

一方で、映像的に素晴らしいのはその殆どが実写で撮影されたシーンの数々で、当時はまだCGがなく、その迫力はやはりCGでは超えられないものがあります。
特に白眉なのは空挺部隊を載せたC-47輸送機が離陸するシーンで、敵地に兵員と物資を運ぶグライダーを牽引して離陸する際に、そのロープが解けていく様を撮影したカメラワークは、これまでの戦争映画の描写の中でもベスト3に入るシーンだと思います。

日本映画が未だに真珠湾攻撃と特攻ばかりを題材にしている事に対して、こうして作戦計画の欠陥により失敗した作戦を美化することなく、巨費を投じて映画化したことは素晴らしいことだと思います。
日本も当時の軍部のお粗末な作戦計画により、どれだけ日本兵が無駄死にしたかを描いた映画があるべきだと思うのですが、不思議なことに戦争に勝った欧米側がこうして自分達の汚点をさらけ出して戦争の無駄と悲劇をきちんと描いていることに対して、敗戦した日本がともすれば自分達の犯した失敗には目を瞑り、戦争の悲劇と特攻を美化するような作品ばかりを作っていることは残念でなりません。

8月は日本人にとって特に戦争について考える季節だと思いますが、太平洋戦争だけでなく、ヨーロッパでの戦争を描いた映画を見るのも戦争というものを客観的に考えることができるのではと思います。
過去にはテレビでも放映されましたのでご覧になった方も多いとは思いますが、興味を持っていただけたなら改めてご覧になっても損はない映画だと思います。

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テーマ:映画紹介 - ジャンル:映画

私をスキーに連れてって

先日、笹本氏ご夫妻と日帰りスキーに行った話を記事にさせていただいたのですが、私たちのような熟年スキーヤー?にとって20代の後半はバブル期ということもあり、現在よりもスキー人口は遥かに多く、しかも若者全体にもっと元気があったように思います。
もちろんその元気は日本経済の好調さに裏打ちされたものであり、今思うと自分自身の実力に見合った根拠のある元気などではなかったのですが、世の中の浮かれ気分と「遊ばなきゃ」に「格好良く・・・」という要素が加わり、ストイックな単独で行うスポーツや遊びではなく、仲間と一緒にお洒落に遊ぶというスタイルが定着した時代だったのではと思います。
そして思い立って懐かしいこの映画をもう一度見ることにしました。

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この映画の素晴らしいところは、スキー場で偶然出会った原田知世と三上博史が同じ会社だったなどというそのちょっと「出来すぎ」な設定などではなく、それまでウィンタースポーツの一つでしかなかったスキーを一気に「お洒落な遊び」としてメジャーにしたことにあります。

映画の公開は1987年で、日本はバブル経済の一歩手前でした。それまでの日本は景気の小さな浮沈こそあれ、基本的には右肩上がりの成長を続けており、私たちの世代は日本の前途に何の不安も抱いてはいませんでした。
私自身はこの映画が公開される前の学生時代からスキーを楽しんでいましたが、当時のスキー場はまだそれほどスキーヤーも多くはなく、比較的のんびりとしていたのですが、この映画が公開されるやスキー人口は一気に増え、週末のスキー場は満員状態で、リフト待ちに1時間!なんてざらでした。

この映画は単純なストーリーの青春恋愛映画という分類に属するのでしょうが、この映画がスキーというレジャーに与えた影響は多大で、特に当時の若い世代にスキーの「遊び方」を提示したという点では、当に世俗をリードしたと言っても良いほどの影響力を持っていたのです。
実際に映画上でのスキーの各シーンにおいてはそのスキー技術を描写するだけでなく、いかに「格好良く」「お洒落に」スキーを楽しむかに焦点を当てて徹底的に細かいカット割りで描写しています。

それは単に滑り方だけでなく、スキーウェアやゴーグルなどの小物から、定地ターンの仕方、スキー板の脱ぎ方、スキー板を使ったゲレンデでの休憩の仕方、片足スキーやグループでのフォーメーション滑走などの描写が実に優れているのです。
実際に映画で紹介されたコネタには随分と参考になるものも多く、当時は現在よりもスキー板が遥かに高価で、スキー板の盗難が絶えなかったため、休憩場所のロッジ前で、三上博史が原田知世のスキー板と自分の板を交互に組み合わせて離して刺して置くなどの技は、この映画が上映されて以降はカップルのスキー場での板の置き方の定番となりました。

しかし、決してスキーシーンを疎かにしておらず、監修をしたのが当時の日本を代表するアルペンスキーヤーである海和俊宏氏であったり、また三上博史の吹き替えでスキーシーンを担当したのも当時の日本のトップデモンストレーターである渡部三郎氏だったりと、この映画を企画したホイチョイプロダクションがこの映画を単に「チャラい映画だけ」に終わらせなかったその企画センスを感じることができます。

残念ながらこの映画は、決して大作と呼ばれる膨大な製作費を注ぎ込んだ作品ではありませんでした。舞台となるスキー場も海外のスキー場などではなく、志賀高原や万座スキー場といった身近なスキー場でしたが、それが逆に、舞台設定や登場人物のライフスタイルを限りなく現実的にし、「ちょっと手を伸ばせば届く」絶妙なその現実感がこの映画のヒットの秘訣になったのではと思います。

確かに、実際には公開されるまではこれほど当たるとは誰も思っていなかったようで、映画に登場する架空のスキーブランドである「SALLOT」も、わざわざ商標登録をしておいたにも関わらず、映画制作が忙しかったために商品開発まで手が廻らず、実際に販売はされませんでした。もし、同時に「SALLOT」ブランドでスキー用品を発売していたら爆発的な売れ行きであったろうと思うのですが、現代では当たり前のこうした映画とのコラボレーション企画も当時としてはリスキーだと思われたのでしょう。

また作品に登場するクルマも実に現実的で、主人公の三上博史がドライブするのがカローラⅡ リトラであったり、友人役の原田貴和子、高橋ひとみの愛車が赤と白のお揃いのセリカ GT-Fourであったりと、とにかく身近な車種であったこともこの現実感を増していました。
実はこの映画を手がけたホイチョイプロダクションは最初三菱自動車に車両提供を依頼したのだそうですが、三菱自動車が断ったためにトヨタにこの話が移ったそうです。一方で車両提供を快諾したトヨタはこの映画がきっかけで両車種の売り上げがぐんと伸びたことからも、当初の企画段階では周囲も含めて「おっかなびっくり」であったことが分かります。それにしても三菱自動車は大失敗をしたものです(苦笑)。
ちなみにこの映画でセリカのバックミラーにストップウォッチを吊るしているシーンがあったのですが、実は皆、密かにマネしたんではないでしょうか(笑)。

そして音楽は、現在であればもう彼女以外は考えられないだろうというユーミンで、その選曲とシーンとの連動が絶妙でした。
これも裏話があり、当初は原田知世が主題歌を歌うことになっていたそうなのですが、彼女が強くユーミンの起用を推薦し、結果としてユーミンがその楽曲を手がけることになったのだそうです。

特に秀逸なのがオープニングシーンで、三上博史が仕事も早々に会社を定時に抜け出して、ガレージでスタッドレスタイヤに交換した愛車のカローラⅡに乗り込み、カセットテープ(笑)をカーステレオに入れるとテーマ曲の「サーフ天国、スキー天国」が流れ出すという演出には痺れるような高揚感があり、一気に映画の中に引き込まれて行きます(苦笑)。

この映画の大ヒットを受けて続けて製作されたホイチョイ三部作と言われる、「彼女が水着に着替えたら」と「波の数だけ抱きしめて」と比較するとやはりこの第一作目が格段に優れており、練りに練った末の企画であったことが分かります。

私たちはこの「ちょっと手を伸ばせば届く」未来に向かって手を伸ばしました。そしてその結果、時代はバブルへと向かっていくのですが、そのエネルギーはその時代の皆がこうして実現できそうな未来へ向かって手を伸ばすことから生まれたのかも知れません。
それは、この映画やその後にブームとなる「トレンディー・ドラマ」のように、非現実でありながら限りなく現実的なライフスタイルを私たちが夢見て望んだ末のことだったのだろうと思いますが、その動機やきっかけはともかく、もう一度日本と日本の若者にもっと未来を切り拓こうとするエネルギーを持ってもらいたいと思います。

私自身はこの映画を公開時に映画館で見て以来、これまで見直したことはありませんでした。こうして四半世紀の後に改めて見て、この映画は「時代」を切り取って感じさせてくれるある種の名作だと思いました。
私と同世代で同じ経験を経た方は「そうだったよなぁ」という思いと共に、また公開時に生まれてもいなかった現在の若い世代の方々には、元気だった日本の姿や、現在も現役で活躍する出演俳優の皆さんの若い演技と、主演の原田知世の可愛さ(笑)を見るだけでも充分楽しめる作品だと思います。

そして過去、この映画を見てすぐにスキーに出かけたように、今回も改めて見たらやはりスキーに行きたくなってしまいました(笑)。

今シーズンはもう一度スキーに行くことにしましょうか・・・。

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テーマ:映画感想 - ジャンル:映画

NINE

いつもはマニアックな視点で映画をご紹介していますが、個人的な好みからクルマの映画と言うより、飛行機が主人公の映画となってしまっています(泣)
もちろんそれは私がこうした映画が大好きだからで、その飛行機の魅力を最大限に表現しているカットがあると、その監督もおそらくマニアなのであろうと勝手に想像して嬉しくなってしまうのですが、今回ご紹介する映画は私もまだ見ていない未公開作品です。

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それはこれからロードショーされるNINEという映画なのですが、今まで私がご紹介してきた映画とは随分と趣きが異なっています。
しかし、まあダマされたと思ってこの予告編をご覧ください。もちろん私が注目する理由はその出演する錚々たる女優陣ではなく、主人公が乗って登場する薄いブルーのGiulietta Spiderです。
私は映画館でこの予告編を偶然見たのですが、思わず声を上げてしまいました。主人公の映画監督が操る海岸線を走るGiulietta Spiderがあまりに格好良く、そのボディカラーがまた実にGiulietta Spiderにマッチしているのです。

設定が売れっ子の映画監督であれば、そのキャラクターを表現するためには本来ならばフェラーリかマゼラーティに乗せるべきだと思うのですが、どうしてアルファ・ロメオなのかが予告編だけでは良く分かりません。おそらく本編を見るとその答えが分かるのでしょうが、監督や脚本家が意図的に主人公をこのGiulietta Spiderに乗せたことは確かで、そのボディカラーも含めて主人公を表す脇役としてこのGiulietta Spiderは効果的に使われているように思えます。

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どうでしょう。主人公役を演ずるダニエル・デイ=ルイスに加えて、助手席に乗るのは母親役を演じるソフィア・ローレンですよ!
これだけでもこのNINEを見る価値があると思います。久しぶりにアルファ・ロメオの存在感がある映画ではないでしょうか。かつてはドラマで主人公の愛車としてルノー4が使用されたところ、若い女性ファンがルノー4に乗りたいと殺到し、中古車相場が上がったことがありましたが、まぁこれをきっかけにGiulietta Spiderの中古車価格が高騰することはないでしょう(苦笑)

3月19日から全国ロードショーです。アルフィスタは劇場へ…
もちろん、世間一般の皆さんはペネロペ・クルスやニコール・キッドマンをお目当てにするのでしょうが…(爆)

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テーマ:ひとりごと - ジャンル:車・バイク

633 Squadron

愛車の916Spiderは相変わらずナニゴトもなく、緑スパもエアコンガスを補充した程度で、夏休みなのかトラブルもお休みのようなので、またヲタクと言われるのを承知で、好きな飛行機について書かせていただきたいと思います。

初めて自分で塗装をして作ったプラスチックモデルは飛行機のモデルでした。それはアメリカのレベル社のもので1/72スケールの第二次大戦のイタリア戦闘機フィアットCR42ファルコというマニアックな機種で、今もって何故これを買ったのかは記憶にないのですが、周囲のヒコーキ好きの友人達がこぞって買い求めていた零戦やマスタングなどを自身で作ったのはもっと後年で、「ちょっと変わった子供」であった私は、ポーランドのPZL-P11戦闘機やらオランダのフォッカーD-21戦闘機やら本当にマニアックな機種ばかり作っていました。

そんな私でしたが、意外に日本の飛行機には淡白で、イギリスのこれまたマニアックな機種がお気に入りでした。最初に作ったイギリス機はもちろんスピットファイアなんて有名機であるはずもなく、AIRFIX社のボールトンポール・デファイアント戦闘機という殆ど周囲の友人達の知らない機種でした。しかも夜間戦闘機という真っ黒な塗装の機体でしたから、もはやヒコーキの世界でも充分な変態と言って良いでしょう(苦笑)

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そんな私がメジャーなイギリス機の中で大好きだったのがデ・ハビランド・モスキートという双発機で、そのきっかけとなった映画が本日ご紹介する"633 Squadron(邦題 633爆撃隊)"です。
最初にこの映画を見たのはもちろんテレビの映画番組だったのですが、その映画を見た後は興奮して眠れないほどでした。
当時の私は、主演のクリフ・ロバートソンや脇役で出ていたウエストサイド・ストーリーで有名なジョージ・チャキリスなどはどーでもよく、私にとってこの映画の主演は人間ではなくモスキートで、この映画がきっかけでモスキートが大好きになってしまったのです。

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モスキートの開発が始まった1930年代当時のイギリスのデ・ハビランド社は木製の軽量という利点を生かした高速機の製造を得意としている航空機メーカーで、イギリス航空省の新型爆撃機開発の要請に得意の木製機でそれに応えようとします。当時は鉄やアルミニウムが不足しており、また戦争で仕事の減った家具職人などの木工技術を持った工員を使えば、この木製機は他の軍需産業への影響を最小限に抑えながら製造することができると考えられました。

当初は防御武装を持った一般的な爆撃機として設計されたモスキートでしたが、それでは速度が足りず、凡庸な性能しか発揮できなかったために、更に軽量化のために防御武装を取り払ってみると、引き締まった伸びやかなフォルムの高速爆撃機となり、その高速故に充分敵戦闘機から逃げ切れる性能を有していました。
しかし、計画を一瞥すると時代遅れの木製機で防御武装を持たない爆撃機なぞ全く相手にされず、イギリス航空省はこの計画を却下してしまいます。アキラメきれないデ・ハビランド社は独自で開発を続行し、その試作機が当時の最新鋭戦闘機であったスピットファイアでも追いつけない速度を出すのを見て、イギリス航空省はビックリ仰天し、すぐさま試作量産機のオーダーを出したと言われています。
しかも、実験機が事故で機体を壊した際に、接着剤と当て木を使ってその場で修理を完了したのを見たことにより、この木製機が戦時の軍用機として限りない可能性を秘めていることをも実証したのです。
かくして"Wooden Wonder"と呼ばれたモスキートは当初の計画であった爆撃機だけでなく、偵察機、夜間戦闘機、戦闘爆撃機といったバリエーションが製造され、その高速を生かした任務に多用され、航空史に残る名機に名を連ねることになります。

それにしてもイギリス人の機名の名づけ方のセンスは秀逸で、高速爆撃機にモスキート(蚊)とは恐れ入ります。日本であれば飛龍、呑龍などと勇ましい名前を付けるのが一般的なのですが、昼夜を問わず敵地を飛び回ったことから、結果としてモスキートという名前は当に「言いえて妙」でした。
事実、モスキートは高高度を高速で敵地に侵入し、目標に近づくと今度は超低空を障害物を避けながら高速で飛行し、ピンポイントで標的を爆撃若しくは銃撃した後は、迎撃してくる敵の戦闘機を振り切って帰還するというヒット・エンド・ラン戦法を得意とし、実際に第二次世界大戦末期にようやく登場したドイツのジェット戦闘機Me262以外ではその追撃は不可能であったと言われています。

モスキートを高速機たらしめたのは、その木製故の軽量に加えて金属製の機体のようにビスを使わないため、機体表面を滑らかにすることができ、その結果空気抵抗が低減し速度が速くなったことなどが挙げられますが、何と言ってもそのエンジンが素晴らしく、これまた第二次世界大戦における航空エンジンの中でも最高と言われる、ロールス・ロイス社の水冷V型12気筒”マーリン”エンジンを2基搭載していました。このエンジンの最高出力は1710hpで、モスキートの最高速度は667.9 km/hと双発機の速度としては飛び抜けており、当時のドイツ防空戦闘機であったメッサーシュミットBf-109Fの最高速度624km/hでは追いつくことができませんでした。

日本にも木製機の構想はあり、当時のイギリスと同様に物資不足を背景にした計画でしたが、モスキートの成功と全く異なるのは、その設計思想がなっておらず、単に金属に代わって木を利用しただけで、木製であるメリットを活かし切れていなかったことにあります。高出力のエンジンがなかったせいもありますが、いかに金属を使わなくて済む木製機であっても、速度が遅ければ、燃えやすいただの標的になるだけで、そんな機体に搭乗させられたパイロットは堪ったものではなかったでしょう。

映画はそのモスキートの活躍する場面を良く描いており、ノルウエーのフィヨルドの最深部にある燃料工場を攻撃するために、その入り口の上にある巨大な岩をピンポイントで爆撃し、その岩を崩すことにより破壊する・・・という作戦がクライマックスです。
この作戦は荒唐無稽ではなく、実際にモスキートが投入された作戦の成功事例に基づいています。
最も有名なものはジェリコー作戦 (Operation Jericho) で、フランスのアミアン刑務所の壁と警備員の宿舎を爆撃し、レジスタンスのメンバーの脱出を助けたものです。

また、映画の途中で囚われたレジスタンスのリーダー役のジョージ・チャキリスが拷問により作戦を自白するのを防ぐために、モスキートで爆撃するというシーンがあるのですが、それは実際にノルウェーのベルゲンにあったゲシュタポの司令部空襲がベースになっており、その作戦では低高度からの非常に精密な爆撃により囚われていたレジスタンスを解放し、記録資料を焼き払うことに成功したものです。

実際のこれらの作戦も、そしてこの映画もモスキートという飛行機がなければ成立しないのですが、この映画とモスキートは後の映画に大きな影響を与えていることは意外に知られていないのではと思います。
それは、あのスターウォーズで、監督のジョージ・ルーカスはこのスターウォーズの様々なシーンで過去の映画へのオマージュとしてそれらの象徴的なシーンを取り込んでいるのですが、第1作目にルーク・スカイウォーカーがX-wingに乗ってデス・スターを攻撃する場面は、この633爆撃隊の設定がヒントとなっているのです。

興味を持たれた方は是非ご覧ください。

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テーマ:おすすめお気に入り映画 - ジャンル:映画

頭上の敵機

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本来のブログのテーマからハズれるのですが、先日の戦略爆撃機のハナシを書いていて思い出した映画があります。
私の一番好きな映画がこの「頭上の敵機」という映画です。戦争映画というジャンルで括られてしまうのですが、その内容は人間ドラマであり、組織のトップの姿が戦争という極限状態の中で描かれた素晴らしい映画だと思います。子供の頃に初めて見て以来、何度も見ているのですが、見るたびに考えさせられるポイントが変わるという、私にとってはEver Greenな映画なのです。

まずタイトルが秀逸です。原題は"Twelve O'clock High"と言うのですが、直訳すると12時上方となります。航空用語では自機を中心として時計をイメージして方角を表します。従って、6時は真下で、12時は真上となるワケです。12時上方とは第二次大戦で連合軍の爆撃機を迎撃したドイツ空軍の攻撃方法を表したもので、当時のB-17爆撃機は上部の防御が手薄だったために、正面上方から急降下で攻撃を仕掛けたことから、邦題は「頭上の敵機」となったワケです。
主演は、「ローマの休日」や「小鹿物語」などで有名なグレゴリー・ペックでその甘いマスクから人気のあった俳優なのですが、この映画では苦悩する航空隊長を好演しています。

物語は、第二次大戦下のヨーロッパでドイツ本土爆撃任務を遂行するアメリカ第八空軍第918航空隊の物語です。
グレゴリー・ペック演じる主人公のサベージ准将は友人の隊長に替わってこの部隊を指揮することになります。この二人は全くタイプが異なり、前任の隊長は人情に厚く、部下を可愛がるために隊員から愛されるタイプでした。
一方で新しく赴任したサベージ准将は部下を厳しく訓練します。それは偏に実戦で部下を失いたくないという動機からなのですが、非情とも言えるその厳しさは部下に理解されず、部下の気持ちは隊長からどんどん離れて行きます。

それでもサベージ准将は部下を甘やかしません。自ら率先して爆撃機に搭乗して作戦に赴く姿は、徐々に隊員の信頼を得ていくのですが、一方で激しくなる作戦で失う部下の数も増えて行きます。
人知れず苦悩するサベージ准将はどんどん精神的にも消耗して行くのですが、それでも地上で部下の帰りを待つよりは、共に作戦に同行しようとします。

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是非、一度ご覧になっていただきたいと思うのですが、1949年に製作されたこの映画は、戦後間もないこともありその細部の描写もリアルです。
特にB-17の作戦飛行の描写は実写を使用していることもあり、圧倒されます。
気に入ったシーンは、主人公がB-17に乗り込むときに機首のハッチに懸垂の要領で足から入っていくのですが、体力的にも精神的にも消耗して行き、ついに懸垂ができなくなってしまい機体に乗り込めなくなってしまうというシーンです。
公開当時は、実際に実戦に参加した方々が多くこの映画を見たのでしょうからこういった描写は、実際の動作を忠実に再現していたのでしょう。
また、驚いたのがアメリカ軍の内部システムで、上官を支持しない場合は全員が転属願いを出すといった最終手段が認められていたということです。映画の中でもそのシーンがあるのですが、日本の軍隊では考えられない制度だと思います。

いずれにせよ、戦争という極限状態ではあるものの、リーダーとしての行動について考えさせられる映画です。
戦争映画が苦手な方も、人間ドラマとしてご覧になっていただければと思います。

ちなみにブロードバンド回線をお持ちの方はYAHOOの動画で無料で見ることができますよ。

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