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走ってナンボ

アルファ・ロメオを始めとする「ちょっと旧いイタ車」を一生懸命維持する中での天国と地獄をご紹介します。

東京物語

私のような飛行機ヲタクにとっては、映画、小説、アニメといったメディアを見る際に、飛行機が登場するとなると、その描かれている飛行機にリアリズムを求めてしまい、どんなにストーリーが素晴らしくても、その小道具としての飛行機が正しく描かれていなかったり、リアルさに欠けていたりすると一気に興醒めしてしまうものです。

恐らく、数ある飛行機が登場するアニメの中で、一番有名な作品が宮崎駿氏の「紅の豚」だと思うのですが、その登場する飛行艇は実在した飛行艇をベースに宮崎氏のコダワリにより架空で改造されたもので、仮にそれが実在しなくとも、その作品の世界にとってそれは必要な改造であり、そのストーリーの素晴らしさと相まってこの作品を名作たらしめていると思います。

東京物語

そんなアニメ作品の中で、最近気に入っているのが滝沢聖峰氏の一連の作品です。滝沢氏は北海道出身の1963年生まれとのことですから、私より3歳年下で恐らく幼少時代はどっぷりとプラモデル造りにはまった年代であろうと思われます。
氏の作品の素晴らしいところはその飛行機の描写だけでなく、ちゃんと素晴らしいストーリ展開が裏打ちをしているところで、飛行機を描かせたら恐らく世界でも三本の指に入るのではないかと思われるほどのリアリティに満ちた描写力が決して突出することなく、ちゃんとストーリーでぐいぐいと読ませてくれます。

特に最近気に入っているのが本日ご紹介する「東京物語」です。

主人公、白河大尉は陸軍航空隊に所属し、1943年の夏にビルマ戦線で戦っていました。当時のビルマ戦線では連合軍の反抗作戦が本格化し、新型機の配備もままならない中、次々と投入されてくる連合軍の新型機を前にして、中だるみの厭戦気分が漂っていました。そんな中にあって白河大尉は異動命令を受領します。新しい任地は陸軍航空審査部飛行実験部で、新型機や鹵獲した敵機などを試験評価したり、新しい兵装や戦術を実験する部隊でした。
こうして内地に帰還した白河大尉は、自宅のある東京の国立から福生にあった飛行実験部に「通勤」することとなります。そして、まだB-29による空襲が本格化する前の東京では、戦時下の厳しい統制生活ではあったものの、まだ日常の暮らしが営まれており、白河大尉は妻の満里子とのつかの間の平和な日常生活を送りながらも、厳しさを増す戦局の中、様々な航空機の試験飛行を行うこととなります。

この主人公白河大尉には恐らくモデルとなる実在の人物がいたと思われます。その人物とは主人公の所属する飛行実験部に実際に所属していた黒江保彦少佐で、陸軍のテストパイロットとして有名な方です。
黒江少佐は、二式戦「鍾馗」の試作機部隊に所属し、その後にあの有名な加藤隼戦闘隊と呼ばれた飛行第64戦隊の中隊長として着任し、加藤戦隊長の戦死後は戦隊長を務めた後に、飛行実験部に異動となり1944年1月に内地に戻ります。そしてさまざまな試験を行ったのですが、その中でも最も有名なのが鹵獲したP-51 Mustangを駆って各部隊を廻って行った模擬空戦で、現代で言うアグレッサー(仮想敵機)役を務めながら味方の戦技向上に尽力したことです。黒江少佐は戦後は航空自衛隊に所属し、航空団指令在任中に趣味で出かけた磯釣りで高波に呑まれて亡くなるのですが、この黒江少佐の姿に主人公の白河大尉の姿が重なって見えるのは、テストパイロットという優れた飛行技術に加えて、冷静な分析力や判断力を要求されるその人格を、作者がうまく写し取ったからではないかと思います。

そしてこの作品が単なる飛行機ヲタクのための戦記アニメで終わっていないのは、丁寧に描かれた妻の満里子との日常生活です。この作品を読まれたならこの満里子のファンになってしまうのではないかと思うのですが、彼女は決して当時の当たり前であった理想的な「軍人の妻」ではなく、夫と喧嘩はするしイタズラもするちょっと「やんちゃ」な女性です。この作品がその戦時下の夫婦生活をベースにしているところにこの作品の素晴らしさがあり、飛行機に興味がない方にも安心してお勧めできる作品です。

そしてこの作品のベースにあるのは徹底したリアリズムで、その生活描写も史実に基づく戦時下の暮らしが描かれています。また随所に描かれた飛行シーンも決して誇張された華々しい戦闘シーンではなく、あくまで史実に基づいたもので、作者が戦史と当時の航空機を知り尽くしていることが伺われるものです。

日本の戦時下では全ての日本人に精神論がまかり通っていたように思われがちですが、冷静に戦局を分析し、連合軍の技術力や工業力を正しく評価し、認識していた人々も多かったと思います。
その中でも実戦経験のあるパイロットは特にそうで、敵の航空機の性能やパイロットの技量を目の当たりにするのですから、他の兵士よりもはるかにそうした実情はナマで感じていただろうと思います。
その中でも特に主人公の白河大尉のようなテストパイロットという仕事であると、余計にそうした情報に多く触れることができたであろうと思いますし、この作品にも鹵獲したP-51 Mustangの性能に感心すると同時に、エンジンの油漏れがないことや、エンジン始動がコクピットからセルモーター一発でできることなどが描かれており、単に性能だけでなく、当時の日米の工業力の差についても触れられています。

ともすればヲタクを感心させるだけのマニアックな劇画となってしまう題材を決してそこで終わらせず、むしろ一般の方?でも読みやすく、かつどんな戦史よりも分かりやすく戦時下での暮らしを描いた作品として、この東京物語は今までになかった作品だと思います。

現在は上巻が発行されており、続けて下巻も近日発売されますので、興味を持っていただけたなら是非お読みいただければと思います。

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テーマ:漫画の感想 - ジャンル:アニメ・コミック

日本国の失敗の本質

このブログは本来はクルマ趣味にまつわる記事を書くためのもので、お読みいただいている皆さんはそれを期待されていることは充分承知しているのですが、8月という季節柄?、戦争に関する記事を書かせていただくことをお許し下さい。
もうすでに読者の皆さんはお気づきかと思いますが、私は子供の頃からクルマだけでなく航空機や軍事方面にも興味があり、プラモデルを造ったり戦史を読むのが好きだったのですが、当時から勇ましい武勇伝としての戦史には全く興味がなく、歴史学者であったイギリスのリデル・ハート卿の「汝、平和を欲するなら戦争を理解せよ」という金言に深く影響を受け、サンケイ出版の第二次世界大戦ブックスを次々と読破していました。

戦争は国家と国民をある種の極限状態に陥らせるため、その時の決断や行動がその国の国民性を知るには最も有効なサンプルだと思います。
この雑誌はフェイスブックで紹介されて購入したのですが、中央公論社から刊行されている2012年8月号増刊「日本国の「失敗の本質」Ⅱ」に掲載されている各々の執筆者の記事では、日本が明治維新以降にどういう軍事システムを築き、結果として何を行ったのか(行わなかったのか)を太平洋戦争を題材として様々な角度から検証しています。

失敗の本質

太平洋戦争は日本にとってその戦争の動機はともかく、何をもって日本国の勝利とし、どうやって戦争を終わらせるのかという出口戦略がないままに始めてしまった戦争でした。
明治維新以降、日本は日清、日露と近代戦において幸いなことに負け知らずで過ごして「しまい」ました。
当時のアジア各国は欧米の植民地となり、搾取され放題であったにも関わらず、小さな島国であった日本が欧米の植民地にされずに済んだのは、明治維新という欧米の常識からすると内戦状態になるような大革命を、ほぼ無血状態で成し遂げることにより欧米につけ入る隙を与えず、天皇を「持ち上げた」立憲君主制という自前の政治システムをさっさと築き上げたことにあります。
そして、西欧各国が疲弊した第一次世界大戦をうまくかわし、日清、日露という限定戦争を勝ち抜けたことにより、西欧からすると「突っ込みドコロはないけれども、自分達の経験した世界大戦を知らない、すなわち近代戦がどれだけ国家と国民を疲弊させるかを経験していない、何をするか分からない不気味な極東の国家」にしてしまいました。

一方の日本は立憲君主制に分類される政治システムを築いたものの、日本人の国民性から欧米の立憲君主制とは大きく異なる、「責任の所在無き政治システム」を造ってしまいました。
日本人は「権限を行使するものがその結果責任を負う」というルールが苦手な国民だと思います。
当時の日本の天皇はその統治の頂点にありながら、「現人神」であるためにその責任を問われることはなく、軍部も内閣もその最終責任を負うという自覚がないままに様々な決定をして来ました。
太平洋戦争に突入する前に、何らかの限定戦争で「小負け」をしていれば変っていたかも知れませんが、その失敗体験を積まなかったことが、あの無謀な太平洋戦争を始めさせ、さらに負け時を見極められなくしてしまったのだと思います。

国際的な感覚で見れば、国家が戦争をする背景には必ず戦争指導者を必要とします。すなわち戦争に勝利するための全てのリソースを統率し、その結果責任を負う指導者ですが、日本にはこの絶対的な戦争指導者がいませんでした。
交戦国であったアメリカにはルーズベルト/トルーマン大統領が、そしてイギリスにはチャーチル首相がそれに当たり、同盟国においてはドイツのヒトラー総統とイタリアのムッソリーニ総統がそれに当たるのですが、これらは全て「ヒト」であり日本の天皇は「神様」ですから、ヒトと神様が戦争をして神様が負けるはずがないと信じてしまったのです。
独裁者であれ選挙によって選ばれた政治家であれ、その判断を間違ったときには最終責任を取ることになります。独裁者であればビトラーからチャウチェスク、フセインに至るまで、これまでの失敗した独裁者の最終責任はその命をもって贖われていますし、政治家であれば失脚し、場合によっては裁判で裁かれるという末路となりますが、神様をヒトが裁くことはできないことから、日本のこのシステムは近代史において類稀な戦争遂行形態であったと言えるでしょう。

このシステムと精神構造が唯我独尊的な日本人の驕りを生み出すと同時に、責任を取らない軍部と政治の指導者を生み出してしまいます。そして、この本の中で小谷賢氏が書いているように、物事を全て希望的観測に基づくベストケース・シナリオを前提に進めるという日本人の行動パターンにより、どう考えても勝ち目なく、また出口戦略のない太平洋戦争を行わせたのだと思います。
そしてこの責任の所在を明確にせず、物事を希望的観測を前提に進めるという日本人の悪い癖は太平洋戦争で終わらず、戦後の様々な国策にも顕れています。その最たるものが今回の原発事故で、「地震で原子力発電所はビクともしない」という根拠のない希望的観測をベースに日本の原子力開発は行われてきたのです。

この責任を取らない・・・という点は日本人の個人的な資質ではなく、むしろ日本人はそれが不可抗力であったとしても個人の責任を重んずる国民だと思います。
他のどの民族よりも日本人は過度に個人の責任を重んじたからこそ、むしろその責任を回避するために、タテ割のシステムにより権限と責任を分散し、問題が起こったときはその責任をなすり合うと同時に、最後はうやむやにしてしまうという「構造」を造り上げたのだと思います。
武家社会では最終責任を取るということは切腹し自殺することでした。しかし、この日本人の責任の取り方は問題の本質を分析することなしに、腹を切ったんだから・・・とその問題を終わらせてしまうという何の改善ももたらさない不毛な幕引きでしかありませんでした。

私が以前勤務していた外資のメーカーでのエピソードですが、ある日工場の実験室で購入したばかりの高価な実験装置が操作上のミスで壊れてしまったことがありました。たまたま出張でその事実が発覚した時に居合わせたのですが、報告を受けたアメリカ人の第一声は「修理はいつできるのか?」でしたが、日本人の管理職の第一声は「誰がやった?」でした。
本来のプラグマティズム(現実主義)とはこういうことではないかと思うのですが、一方で日本人は欧米人が想像もできないプラグマティズムを持っているのです。

日本人のプラグマティズムの極例が神風特別攻撃隊だと思います。私達はこの特攻を太平洋戦争での悲劇であり、国のために自分の命を捨て、そして後世の日本の繁栄を願いつつ亡くなった若い志願兵の話として知っていると思います。
もちろん個々人の気持ちはそうだったでしょうし、その志や思いは現代の私達が失くしてしまいつつある大切な気持ちだと思うのですが、この特攻作戦はその純粋な気持ちから生まれたものではなかったのです。

この本の中で田中健之氏が書いているのですが、組織的な特攻作戦は海軍の大西瀧二郎中将によって立案されました。「組織的な」という意味は、それまでも被弾した航空機が体当たりをしたケースがあったからなのですが、それはあくまで個人的な判断によるもので、これは日本軍に限ったことではなく、欧米にも同様のケースがありました。
しかし、1944年7月9日にサイパン島が陥落した時点で、当時の日本が設定していた「絶対国防圏」が崩壊することになります。実際にサイパンが陥落することにより、日本の国土の殆どがB-29の作戦行動範囲内となり、占領した南方からの物資が日本に届かなくなることから、それ以降の戦闘の継続は無意味となります。
すなわち戦略的な意味での戦争はこの時点で負けで、それ以降の敗戦までの1年以上の戦闘は、日本の政府が降伏という判断をできなかったことによるものなのです。
もしこの時点で降伏していたならば、東京大空襲も、沖縄戦も広島・長崎の原爆投下もなく、どれだけの軍人と民間人の命が救われ、それらの人々がどれほど戦後の復興と世界人類の繁栄に貢献したかと思うと、戦後の東京裁判で戦勝国の論理により裁かれなくとも、日本人としては戦争に負けた責任ではなく、同胞を無駄死にさせた罪は万死に値すると思います。

しかし、この時点で降伏せずにさらに戦闘を継続するためには通常の戦術では不可能であることから、「現実的かつ合理的に」立案されたのがこの体当たり攻撃だったのです。
現代の巡航(対艦)ミサイルは攻撃目標を設定して発射すると、発射された巡航ミサイルは敵のレーダーに捕捉されないように低空を飛び、弾頭のビデオシーカーで目標を認識し、その軌道を修正しながら目標に命中します。
つまり、当時の体当たり攻撃は現代のミサイルが電子的に制御して行うことを人間にやらせていたので、言い換えれば太平洋戦争時代に現代のミサイルを持ち込んだことになるのです。

戦後に米軍の記録とも照合した結果、陸海軍の特攻による命中機は450機に上っているそうです。これを出撃した特攻機全体の命中率に換算すると15%になります。これがどれだけ凄い数字かと言うと、戦闘艦からの砲雷撃による実戦での命中率が2%、航空攻撃においても真珠湾攻撃のように奇襲でしかも相手が停泊しているような場合を除けば、同様の確率とのことですから、この特攻攻撃は決して捨てばちの自殺行為ではなく、相手を攻撃するための空母がなく、あったとしても着艦はおろか発艦もできないような練度の低いパイロットしかいないという状況の中で、最も効果的に相手に損害を与えるためには・・・という観点で立案された立派な「作戦」だったのです。
もちろん大西中将は部下の兵士に「死ね」と命ずるような作戦は「統率の外道」と考えており、敗戦後に「死をもって特攻の英霊に謝せん」と割腹自殺を遂げます。

しかし、彼のように冷徹に作戦として特攻を命じた作戦責任者だけでなく、作戦上も戦略上も何の効果も期待できない状況で特攻隊を送り出した指揮官は数多く、そしてそれらの指揮官は戦後も生きながらえていたことは特筆に価します。
つまり、特攻を人間を巡航ミサイルの部品にすることだと熟慮の末に実行した指揮官は、その判断の責任を自らが負ったことに対して、敵に損害を与えるための作戦としての特攻ではなく、特攻そのものを手段ではなく目的として命令し、特攻隊員を無駄死させた指揮官は、その自らが下した命令の真の意味すら分からずに、結果として何の責任も負わなかった(感じなかった)ということだと思います。

日本人の「失敗の本質」はここにあると私は思います。

究極の国難に際して人間を部品にする作戦を考え、部品になることに誇りを持つことのできる民族は世界においても稀有だと思います。しかし、その現実主義もそれに応える行動も失敗の後始末でしかなく、太平洋戦争そのものが、冷静な現実主義による戦争という判断でもなんでもなかったことが、福島の原発事故の際に死ぬ覚悟で発電所に留まり、被害を食い止めた東電の「現場の」の責任者と職員達と、東電の役員、原子力委員会、そして政治家の言動とタブって見えるのは私だけではないと思います。

この雑誌の内容は、一部に太平洋戦争の作戦史を知らなければ分かりにくい記事もあるものの、全体としては一般的な知識があれば充分読むことの出来る内容で、時代と事例を読み替えて現代の様々な事象に当てはめて見ても、日本人が過去の失敗からどれほどのことを学んだのか・・・と考えさせてくれます。
雑誌ですので、この記事を読んで興味を持っていただけたなら早めに購入されることをお勧めします。

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テーマ:軍事・安全保障・国防・戦争 - ジャンル:政治・経済

上海脱出指令

ここ近年は歴史小説がブームのようです。歴史には幾つかのターニングポイントがあり、「もし、あのときにこうしていれば・・・」という、その後の歴史が全く変ってしまったかもしれない瞬間があるものです。
そしてそれをシュミレートして見ることは誰もが考えることで、特に戦史においては戦国時代の合戦から第二次世界大戦に至るまで、その「IF」には事欠かず、多くの作家の皆さんがこの歴史IF小説を手がけていらっしゃいます。

私も試しに何作か読んで見たのですが、最初は面白かったのですがそのうち飽きてしまいました。その理由は、題材が日本の負け戦のきっかけとなった指揮官の判断ミスや天候などの条件を変えて、結果を勝ち戦に変えてしまうという、「後出しジャンケン」のようなものが多いことなのですが、加えてその「IF」がエスカレートし、最後には「もしこの兵器が開発されていたら・・・」などが加わるに至っては、もはや歴史の一つの考察を通り越して、歴史への冒涜としか思えない内容になってしまっているからです。

第二次世界大戦のIF小説に多いのがこれらのパターンで、単純に娯楽小説として笑いながら読むのが正当な楽しみ方なのかも知れませんが、多少なりとも史実を知りその本質を理解して読むと、そんな表面的なIFで歴史の大勢が変るはずもないことが分かります。
さらに、太平洋戦争に関して連合国側から見たIF小説を書くのであればもっと簡単で、真珠湾攻撃を予め暗号解読で知っていたアメリカ(ここまでは史実)が、本気で迎撃体勢を整えていたら・・・という一点のIFだけで、その後の戦争の行方は大きく変ってしまったであろうことは言うまでもないでしょう。

上海脱出指令

すなわち、戦争に関するIFはその双方に「言いたいことは一杯ある」のが常で、それを言い合っていても不毛なだけだということなのですが、これからご紹介するこの「上海脱出指令」は現実の史実を背景に描かれたフィクションで、最初は単なるアクション小説か・・・と思ったのですが、読んで見たらその設定と内容に唸らされてしまいました。それは歴史IF小説とは全く異なる、緻密な設定と時代考証に基づいた上での「荒唐無稽」なアクション大作だったのです。

実はこの作品に出会ったきっかけは昔の勤務先の同僚からの紹介でした。フェイスブックを通じてお互いの近況を知り合うようになったのですが、その彼女は読書家で、私などとは異なり実に様々なジャンルの本を継続して読まれている方です。その彼女の好きなジャンルの中にこのような戦争やメカをモチーフにした小説があったことに驚くと同時に、その彼女がAmazonにこの本の書評を書いて、私に勧めてくれたのでこれは読まねば・・・と入手したのですが、恐らくこのようなきっかけがなければ目にすることはなかったろうと思いますので、この縁を与えていただいたことには感謝に耐えません。

作者の工藤誉氏は何と大学の同窓でもあるのですが、この作品が処女作でそれまでは電子機器メーカーや自動車メーカーの学校法人などに勤務されていた背景のある方のようです。そんな背景のある氏がどうしてこの設定を思いついたのかは定かではありませんが、目のつけどころと言い、当時の状況と言い、相当なリサーチの上で書かれたものであることが分かると同時に、氏が相当な「好きモノ」であることが取り上げられる「小道具」から推察できます。

時代は日米開戦前夜の昭和16年の上海。当時の上海は租界が形成され、それぞれの国が主権を持つエリアに分割されていました。日本は欧米にまだ宣戦布告をしておらず、表向きは日中戦争の当事者は日本と蒋介石率いる国民革命軍との戦争だったのですが、中国に覇権を維持したいと考える列強各国は上海で表面的には平和的な商業活動を行いながら、日本の今後の出方のみならず、すでに始まっていたヨーロッパでの戦争に関する情報収集を行っていたのです。
そんな中にあって日本の誇る新鋭戦闘機である零式艦上戦闘機32型が墜落事故を起こします。32型は後に投入される新型戦闘機で、11型から始まる零式艦上戦闘機の改良型の3代目に当たります。その試作機に搭乗していたのはパイロットとその設計技術者で、パイロットは死亡し機体は焼失したのですが、設計技術者はパラシュートで脱出することに成功します。その新鋭戦闘機の秘密を秘匿するために、この技術者を一刻も早く救出したいとする日本と、零式艦上戦闘機の秘密を手に入れたいとするイギリスとの間に繰り広げられる壮絶な戦いを描いたのがこの小説なのですが、そのストーリーの詳細は読まれる方のお楽しみにしておきたいと思います。

しかし、作者の工藤氏のそのリサーチに敬意を表して、また、あまりその手のヲタク的な知識を持ち合わせていない読者の方の助けとなるように、この作品に登場するアイテムについて少し解説をしておきたいと思います。
ただし、こうした知識はこの小説をより面白く読むための助けになるとは思いますが、こうした知識なしに読まれたとしても、この作品の面白さをいささかも殺ぐものではないことを付け加えておきたいと思います。

○海軍陸戦隊
パラシュートで脱出した設計技師を探し出して救出する主人公である工藤少尉が所属していたのがこの海軍陸戦隊という設定にまず唸ってしまいました。
意外に知られていないのが日本の海軍陸戦隊で、当時の海軍軍人の中(陸軍はもっと)でもこの海軍陸戦隊を単に船乗りに鉄砲を持たせただけ・・・と小馬鹿にする風潮がありました。
日本海軍陸戦隊は、現代では世界最強と言われるアメリカ海兵隊のベースとなったものなのですが、海兵隊そのものは世界に旧くから存在しており、その起源は帆船時代にまで遡ります。当時の海戦はお互いの船が並走し、片舷の大砲を撃ち合うといった戦い方で、最後は船を横付けして相手の船に乗り込んで奪取するというのが一般的な戦い方でした。そのために軍艦には敵艦に乗り込んで戦うための兵士が乗り込んでおり、これが現代の海兵隊の元祖です。また海兵隊は艦内の治安維持にあたる憲兵の役割も担っており、屈強な上に知識レベルも高いエリートがその任に当たっていました。
「バウンティ号の反乱」という映画をご覧になったことがある方もいらっしゃるかと思いますが、当時の軍艦の乗組員の勤務環境は苛酷で、そんな彼らに戦闘時以外で武器を持たすとあっという間に反乱がおきて船を乗っ取られてしまったのです。そこで武装した海兵隊員の平常の任務は艦内の治安秩序の維持であったのです。
そして後年になってこれまでの任務に加えて、強行上陸や潜入上陸して上陸地点の確保という役割が加わることにより、海兵隊は特殊訓練を受け、最新鋭の特殊装備を持つスペシャリスト部隊としての意義を持つことになります。
つまり通常の陸軍の部隊と比べて小人数での作戦をこなさなければならないために、一人一人が多能化した少数精鋭でなければならず、また限られた装備で本隊が上陸してくるまでその場所を確保しなければならないために、コマンド部隊のようなサバイバル能力を持つ必要があり、そして狭い艦内での戦闘を前提とした特殊武器の装備といった、現代のネイビーシールズのような役割を果たしていたのが日本海軍陸戦隊で、上海において押し寄せる抗日ゲリラから圧倒的少数の部隊で邦人を守るという任務を遂行していた日本海軍陸戦隊の優秀さに感銘を受けたアメリカは、この日本海軍陸戦隊をモデルにして海兵隊を設立したと言われています。
主人公の超人的な活躍は彼が日本海軍陸戦隊員であったという背景とすることにより、そのリアリティを高めることに成功しています。

○零式艦上戦闘機32型

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言わずと知れた日本海軍の名戦闘機ですが、その各型の違いについてはあまりご存じないのではと思います。最初に配備されたのが11型と呼ばれるもので、そのデビューは中国戦線でした。11型は試作量産機と言えるもので、その翼端は空母搭載のために折り畳まれるようにはなっていませんでした。そして量産型の21型となっていよいよ本格的な空母での運用がスタートし、翼端を折り畳むことにより空母のエレベーターに搭載できるようになりました。真珠湾攻撃に参加したのはこの21型ですが、その配備は遅れに遅れ、ようやく間に合ったというのが真相で、多くのパイロットは11型を使って訓練を行ったと言われています。その21型の改良版が32型で、翼端の折り畳み部分を切り飛ばして翼を短くして、新しく2段過給の栄21型エンジンを装備しており、それまでの21型に比べて、最高速度、降下速度は向上し、高速での横転性能も向上したのですが、一方で搭載燃料が少なくなってしまい、21型に比べると航続距離が短くなるという欠点もありました。
この32型の試作1号機の初飛行は昭和16年7月14日ですから、この作品の設定には合っているのですが、試験飛行を中国で行ったという史実はなく、作者のフィクションだと思います。
作品ではアメリカやイギリスが零式艦上戦闘機の秘密を探ろうと躍起になっていますが、実際は殆どノーマークでした。そこには人種偏見があり、アジア人に自分達より優れた航空機を開発する能力なぞあるわけがないと思われていたのです。日米が開戦して実際に日本の戦闘機に空中戦で圧倒されるまで、日本はまだ第一次世界大戦時の複葉機を運用していると思われており、実際に目の当たりにしても日本はドイツから技術供与を受けているに違いないと信じ込まれていました。これも史実ですが、唯一中国で日本の新鋭戦闘機である零式艦上戦闘機や一式戦「隼」(この二機は引き込み脚の低翼単葉戦闘機であったために混同されていました)との戦闘を経験した、米国義勇航空隊(フライング・タイガース)のクレア・シェンノート将軍がアメリカ国防省あてにこの日本の戦闘機の性能について警告するためにレポートを送っているのですが、上記の偏見から完全に無視されてしまったのです。
また小ネタですが、この小説では零式艦上戦闘機の設計者であった堀越二郎技師が過労で倒れ、その部下であった小野寺技師がこの32型の設計を担当し、試験飛行に同乗したことになっていますが、堀越技師が実際に過労で倒れたのは史実通りではあるものの、この32型を担当したのは、同じく三菱航空機で一式陸攻の設計を担当した本庄季郎技師でした。しかし、そこまでリサーチして小野寺技師という架空の人物を創り出した作者のリサーチ力には恐れ入ります。

○ヴィッカース・クロスレイ装甲車

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こんな渋い脇役が登場するとは思いませんでした。
ヴィッカース・クロスレイ装甲車はイギリスのヴィッカース社が開発した装輪装甲車で、戦車のようなキャタピラを持たないため、軽量、安価でしかも舗装路においての走行性能が高いことから、もともとは飛行場の警備用として開発されたものでした。しかし、上海のような市街地における警備用としては需要があり、日本海軍は1925年型のM25四輪装甲車をイギリスより輸入して配備していました。
装甲は5.5mmと薄いもので、小銃弾に対する防護能力しかなかったのですが、車体上部の旋回する銃塔にはヴィッカース製の機関銃を2門装備し、最高速度も64km/hであったために市街地を走って、戦闘地域に駆けつけることができました。日本海軍陸戦隊が装備していたものはタイヤもソリッドタイヤで、敵弾を受けてもパンクしなかったこともこうした市街戦には有効でした。実際に海軍陸戦隊はこのヴィッカース・クロスレイ装甲車を効果的に運用し、上海の日本人租界に対する抗日ゲリラの攻撃を応援部隊の到着まで2週間にわたり守り切ることができました。
このあたりの史実にも忠実なのがこの作品で、この装甲車の運用方法である敵銃弾の盾に装甲車を前面に出し、その後方から兵士が歩いて敵に近づくという戦術がちゃんと描かれています。

○パッカード

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この小説には車種までは書かれていませんが、年代から見て恐らくパッカード・エイトだと思われます。パッカードは戦前のアメリカの高級車で、イギリスのロールス・ロイス、ドイツのメルセデス・ベンツと比べても遜色ないクルマでした。歴代のアメリカ大統領もこのパッカードを専用車としており、戦後も皇室の御料車として使用されるほど、アメリカを代表する高級車でした。あえて作品でロールス・ロイスではなくパッカードを登場させた作者の見識には恐れ入りました。

○ベルグマン短機関銃

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正確にはベルグマンMP18短機関銃です。海軍陸戦隊の装備として描かれているのがこの短機関銃ですが、もともとは第一次世界大戦の塹壕戦から生まれた機関銃で、塹壕の中の敵兵を効果的に掃討するために開発された機関銃でした。そして海軍陸戦隊では狭い艦内での敵の掃討に有効という目的から採用されました。このような装備は通常の兵士が銃剣突撃も想定した槍のように大柄な小銃(歩兵銃)を装備していたことと比較して、当然市街戦においても有効なのですが、当時の日本軍でこのような機関銃を装備していた部隊はなく、いかに海軍陸戦隊がコストをかけて近代的な装備をしていたかが分かります。

○モーゼル1912

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これも正確にはモーゼルM1912と呼ばれる拳銃です。モーゼルと聞けば殆どの方が思い浮かべるのはC96というトリガーの前に弾倉がある自動拳銃だと思いますが、このM1912はリーフ・ロックという特殊な閉鎖機構を持った自動拳銃で、コンパクトでありながら威力があるということで、将校の護身用として人気のあったモデルです。

○メルセデス25

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これまた正確にはメルセデスW25で、1934年に開発されたメルセデスのGPカーです。そのレイアウトはコンベンショナルで、フロントにスーパーチャージャー付の直列8気筒DOHCエンジンを搭載しリアを駆動するというFR形式でした。このW25には面白い逸話があり、当時のGP規定では車両重量が750kgまでと定められていました。しかし、このW25がデビューレース前の車検で規定重量を1kgオーバーしていることが判明してしまい、チームの監督であった有名なアルフレート・ノイバウアは窮余の策としてボディの塗装を剥がすよう指示します。徹夜作業で白いナショナルカラーの塗装を削り落とし、辛くも再計量を通過すると、マンフレート・フォン・ブラウヒッチュのドライブにより見事デビューウィンを果たしたのですが、ボディがアルミ製であったために塗装を剥がすとシルバーの地肌が露出し、そのことからシルバー・アローと呼ばれるようになり、それまで白であったドイツのナショナルカラーをシルバーに変更するきっかけとなったと言われています。

○アウトウニオンA型

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現在のAUDIの前身であるメーカーがこのアウトウニオンで、この作品のクライマックスで用いられているのがこのアウトウニオンのGPカー、P-WagenのAタイプです。
P-Wagenはこの作品に書かれているとおり、フェルディナンド・ポルシェ博士によって開発された、現代のF-1マシンの基礎となったマシンです。その最大の特徴はエンジンをミッドシップ(車体中央)に搭載していたことで、45度V型16気筒4.35LエンジンはこのP-Wagenを時速250km/h以上のスピードで走らせることができました。
一方でその挙動は現在のミッドシップマシン以上に過激で、実際に乗りこなすのは難しく、ベルント・ローゼンマイヤーを始めとする数人しかいなかったと言われています。
作品では、この初期モデルのA型を公道仕様に改造したモデルを登場させていますが、実際にそのようなモデルが造られた史実はもちろんありません。
作品ではこのP-Wagenで上海の街路を走って警戒線を突破する設定となっていますが、そのクライマックスのアクション描写はともかく、小野寺技師とこのP-Wagenの開発に携わり、引退して上海に移り住んでいたヴェルナーとの技術者同士の会話が実に素晴らしく、戦闘機とGPマシンというどちらも極限で戦う機械の設計者として通じるものがあり、これらの描写もこの作品に単なるアクション小説に留まらない魅力を与えています。

作品全体はちょっと「詰め込みすぎ」という印象がありますが、私のようなヲタクでも突っ込みどころなく楽しく読める作品でした。そして単なるアクション小説として読んだとしてもその設定に無理がなく、テンポ良くストーリーが進んでいくために一気に読むことができます。
処女作ということで、作者には充分にリサーチする時間があったと思いますし、その構想も練りに練られた末のものであったろうと思います。
作者の今後の作品にも期待したいのですが、願わくばこの作品のコンセプトを引き継いで、史実を曲げることなく、その史実をベースにしたサイドストーリー的な新しいフィクションを創作して欲しいと思います。

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テーマ:読書感想文 - ジャンル:小説・文学

イリュージョン

今までの人生の中で自分自身が行き詰ったり悩んだりしたときに読み続けて来たのが、本日ご紹介する「イリュージョン」という小説です。

かもめのジョナサン1

「カモメのジョナサン」という往年のベストセラーの題名を知っていても、その作者についてご存知の方は少ないのではないかと思います。
リチャード・バック氏はこの「カモメのジョナサン」で一躍有名作家として世界中に知られるようになりました。
氏は自身がパイロットでもあり、「カモメのジョナサン」で擬人的に飛行術を学ぶカモメを描きましたが、この「イリュージョン」は第一次世界大戦後のアメリカに多く存在したバーンストーマーと呼ばれる遊覧飛行パイロットが主人公です。

第一次世界大戦が終わり、従軍したアメリカのパイロットはその多くが除隊を余儀なくされました。膨大な戦費のために軍縮を行ったアメリカ軍は、戦時中に養成したパイロットを引き続き職業軍人として雇用することができなかったのです。しかし一度空を飛び、その魅力に取りつかれたパイロット達は飛び続けるためにある者は郵便飛行士に、またある者は旅客機のパイロットに転進するのですが、そういった組織に所属するのではなくもっと気楽に大空を飛びたいと考えるパイロットは、地方を巡業する曲芸飛行団に所属したり、主人公のように各地を気ままに渡り歩き、各地で遊覧飛行を行うバーンストーマーとなることを選びます。バーンストーマーとは「納屋の扉を揺らす」という意味で、飛行機が低空を飛行すると農場の納屋がガタガタと音を立てることから名付けられた名前です。
この辺りの物語はかつてロバート・レッドフォード主演の映画、「華麗なるヒコーキ野郎」に描かれていますので、興味のある方はそちらも見られてはと思います。

村上イリュージョン1

彼らは練習機として大量に生産され、戦争が終わると共に、余剰となって民間に払い下げられたカーチス・ジェニーなどを愛機として地方を飛び歩いたのですが、そんな二人の飛行士がこの「イリュージョン」の主人公です。
現代に「救世主」を職業とし、そしてそれを辞めてバーンストーマーとなったドナルド・シモダ。そしてそのドナルドに商売仇でありながら惹かれて行くリチャード。
ドナルドは「救世主」を求めて自分の許にやってくる群集に対して癒しを与えたり病気を治したり、ちょっとした「奇跡」を起こし続けることに嫌気がさしていました。
そして、群集に向かってこう言います。

「ええと、私は自分が好まない道は歩くまいと思うのですよ。私が学んだのはまさにそういうことなのです。だから君達も、人に頼ったりしないで自分の好きなように生きなさい、そのためにも、私はどこかに行ってしまおうと決めたんです」

そしてドナルドは救世主を辞めバーンストーマーとしてどんなに飛んでも汚れたりオイル漏れしない、そして燃料も必要としない複葉機で旅に出てリチャードと会うのです。

なぜドナルドは辞めた救世主の仕事をリチャードに教えることにしたのか。それは最初に会ったときにリチャードがドナルドに言ったこの言葉がきっかけでした。

「人間が長い間飛べなかったのは空を飛べるわけがないって考えている人が圧倒的に多かったからなんだ、うまく言えないけど、人間は鳥にだってなれたんじゃないかと思うんだ、そして、今だって鳥になれると思うんだ、人間の格好をしたままでさ、大事なのは、やる気みたいなもので、ちゃんと空を飛ぶ方法があって、それを学んだり勉強したりする気持ちが大事なんだと思うね俺は」

ドナルドはリチャードに救世主という仕事について語り始めます。

「どうしても言いたいことがある。自由が欲しいときは他人に頼んじゃいけないんだよ、君が自由だと思えばもう君は自由なんだ、リチャード、このことのどこが一体難しいんだ?・・・」

そしてドナルドは「救世主入門」というテキストをリチャードに見せます。そしてそのテキストにはページ番号も目次もなく、どこを開いても、任意にページをめくればそこに一番知りたいことが書いてあるとのことでした。

「君にふりかかることは全て訓練である。訓練であることを自覚しておけば、君はそれをもっと楽しむことができる」

「責任を回避する一番の方法を教える。「私はすでに責任を果たした」そう大声で言いたまえ」

リチャードは不思議なことに読むと心が落ち着いて、暗記するまで何度も読み返し始めます。

そして少しずつドナルドの気持ちを理解し始めます。

「わかってきたよドン、君はせっかく学んだものを誰かに正しく伝えたいんだろう? 奇跡を求めて車椅子を何十台も押してくるんじゃなくて、ちゃんと話しを聞いて欲しいんだな? それが本当の救世主の仕事だと思うよ。」

そしてドナルドはついに、地方のラジオ放送に自ら進んで出演し、リスナーの質問にこう答えてしまいます。

「てめえはいかさま野郎だ」

「もちろん俺はいかさま師だ、この世界に生きている人間はみんなそうだ、本当の自分じゃないものになりすまして生きているのさ、いかさま師じゃない人がいたら紹介してくれ」

ドナルドはその結末を予期していて、自らの意思でそれを選んだのですが、それは全てのこの世のことが「イリュージョン(幻)」であることをリチャードに伝えるためであったのかも知れません。

私はまだ高校生だったときに初めてこの「イリュージョン」と出会いました。そしてそれから30年以上、折に触れては読み返す愛読書となったのですが、何度読んでもその時の自分に対してこの本は何かを語りかけてくれました。
私が読んでいるのは残念ながら原書ではなく村上龍氏の翻訳なのですが、後にその若き日の村上龍氏がこの翻訳をかなり自身の作品として、通常の翻訳以上にドラマチックに仕立てる創作を加えたことを知るのですが、そのことがこの作品の魅力を殺いでいるわけではなく、むしろリチャード・バックと村上龍の合作のような作品となっているのではと思います。

集英社イリュージョン1

現在は村上龍氏の翻訳版は絶版となっているようですが、後に佐宗 鈴夫氏による原書に忠実な翻訳も刊行されており、こちらは現在でも入手することができます。私は読んだことがありませんので、ひょっとしたら今まで書いた内容と少し異なっているかも知れませんが、私にとって「イリュージョン」はこの村上龍氏の翻訳したものであり、私自身は文学研究者ではありませんので、敢えて読まないようにしています。

心が弱ったり迷ったりしているときに、「本」は何かしら答えを導き出すきっかけを与えてくれるものです。そしてその答えは「本」から得られるのではなく、自分の中にすでにあるその答えを再確認するためのきっかけに過ぎないのですが、その「きっかけ」となる愛読書をいつでも読めるように手許に置いておくことは大切なことだと思います。

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コンチネンタルサーカス

静養と言えば「読書」が定番だと思うのですが、私も同様でこの一年は随分と本を読む機会が増えたと思います。
もともと読書が好きで、どちらかというと速読派のためイッキ読みをしてしまい、読み終わった本も溜まる一方となってしまいます。
よくゴミ捨て場に束ねた本が捨ててあるのを見かけることがありますが、私には本を捨てることがどうしてもできません。
中学生のときに図書部に所属し、一時は図書館の司書になろうかと思ったことがあるのですが、その図書部の活動の中に痛んだ本の修復というのがありました。ボロボロになった表紙や装丁を再度製本し、黄ばんだ断面は切り落としたりして修理するのですが、これらの作業を通じて本を大切に扱うと共に、それが例え自分には気に入らない作品であったとしても、こうして世に出たからには次の読み手はひょっとしたら一生の座右の書となるかも知れないと考えるようになったのです。
しかも、本は仮にその時の自分が気に入らなかったとしても、年齢を重ね改めて読み返したときには全然違う感じ方をすることもありますので、まずます捨てられなくなってしまうのです。

しかし、本棚はクルマ関係の雑誌やカタログ類で溢れ、さらに本はその前に山詰みにされ、その山がどんどん部屋の中で増えてくるにつれ、流石に永遠に手許に置いておくワケにはいかなくなってしまいました。仕方なく一念発起し本を整理することにしたのですが、前記の理由から捨てることは憚られるため買取店に持っていくことにし、手許に残す本、捨てる本を選別することにしました。
こうして本の山を整理しているとかつて読んだ懐かしい本が出てきました。今日はその懐かしい本の中からコンチネンタル・サーカスと呼ばれるロードレース世界選手権(WGP)を描いた不朽の名作をご紹介したいと思います。

それは「ウインディーⅠ」「ウインディーⅡ」そして「チャンピオン・ライダー」という三部作で作者は泉優二氏です。

ウインディーⅠ
ウインディーⅡ
チャンピオンライダー

泉優二氏は映画監督を目指したこともある映像作家で、サッカーの魅力に取り付かれヨーロッパに活動の拠点を移して1977年からヨーロッパサッカーの取材を始めます。そんな中で出会ったのが当時の日本では全く知られていなかったWGPというオートバイレースで、その350ccクラスのチャンピオンライダー片山敬済選手の活躍を映像化することになります。現在ではMotoGPとしてメジャーになったオートバイレースも当時の日本では殆ど知られておらず、オートバイレーサーは単なる暴走族の延長としか思われていなかったのですが、現在と異なり当時はワークスマシーンに混ざってプライベーターも出場しており、まだまだそのプライベーターにも勝つチャンスがあった「旧き良き時代」でした。

私はこの本を1988年に購入したのですが、当時はF-1グランプリがブームで私自身は大してオートバイレースに思い入れはなかったのですが、そのブームの延長線で何気なく購入したことを覚えています。しかし、読み進むうちにその内容にグイグイ引き込まれ、最後には涙を流すほど感動してしまったのです。こうしてこの本は私の「殿堂」入りとなり、その後も何度も読み返している愛読書の一冊となりました。

物語は1973年のフィンランドのWGP第11戦から始まります。主人公の杉本敬は日本でチャンピオンになった後にヨーロッパのWGPにチャンレンジするために渡欧したライダーです。しかし彼を待っていたのは日本でのチャンピオンなどというプライドは吹っ飛ぶほどの過酷なレースでした。WGPに比べれば遠い極東のレースなどは草レースと同様だったのです。
WSPはヨーロッパ各地のサーキットを転戦し半年に亘るシーズンで10~12レースを走らなければならず、さらにこのWSPとは別に開催されるインターナショナルレースにも参戦すると、年間で40~50レースをこなさなければならなかったのです。そして一部のワークスライダーを除き、プライベートライダーは走るだけでなく、サーキットを移動するための運搬車のドライバーやチームマネジメントからコックまでの全てを自分でこなさなければなりません。それまでの彼はサーキットに行けばマシンが準備されており、それに乗って走るだけで良かったのに対して、ここでは走るまでの準備に走ること以上のエネルギーと時間を費やさなければならないのでした。

ストイックに自分自身を追い詰め、自分自身だけでなく周囲の人間に対しても自分のレースのために行動することを求める彼も、時折見せるその人間味に惹かれ仲間と呼べる理解者が周囲に集まって来ます。しかし彼はそれになかなか気がつきません。彼にとってはレースに勝つことが全てで、その過程は重要ではなかったのです。
しかし、事故による怪我、仲間の死、ライバルの苦悩を通じて自分自身にとっての「走ることの意味」を考えるようになります。
サーキットを転戦するレース参加者はコンチネンタル・サーカスと呼ばれるように全体が一つの家族であり、レースを走ることは全てではなく生活の一部であることを感じるにつれ、自分一人で走っているのではないことに気がつくのです。そうしてようやく内面の渇望が満たされ新しい人生の目標に向かう決心をした時にその悲劇が訪れます。

物語について多くを語るのは控えますが、特筆すべきはそのレース描写で、あたかも自分自身が走っているかのような錯覚に陥ります。そしてライダーの心理描写が素晴らしく、作者自身がレーシングライダーではないかとまで思わせるほどです。おそらく作者が小説家ではなく映像作家であることが多分に影響しているのだと思われますが、映像とは異なりレースでの一瞬の出来事を切り取りその描写をする時のスピード感と、レース外での人間描写のスピード感のギャップがこの小説をより一層魅力的なものにしています。

この本が書かれてからすでに30年以上が経過していますが、レーシングライダーを取り巻く環境が変わったとしても、その心理は不変ではないかと思います。そして未だにこれらを超えるレーシングシーンを描いた本に出会ったことがないことからも、この作者の非凡な才能を確認することができます。

ウィンディーはかつて映画化もされましたが、残念ながら原作を超えることはできなかったのではと思います。映像作家である氏が書いた小説の方が映像よりも優れているというのも皮肉なハナシだとは思いますが、それほどこの小説が単にストーリーとしてだけでなく、その描写も含めて素晴らしいからなのでしょう。
現在は絶版となっているようですが、唯一無二の小説ですので是非再版して欲しいと思いますが、中古でも販売されているようですので、興味のある方は是非ご一読いただければと思います。

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