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走ってナンボ

アルファ・ロメオを始めとする「ちょっと旧いイタ車」を一生懸命維持する中での天国と地獄をご紹介します。

戦場の宅配便

東日本大震災での救援活動で自衛隊がどれほど貢献したかはもはや議論の余地はないと思います。
その中で自衛隊の持つ装備が活躍したことは大きく報じられましたが、それ以上に一般の人々に驚かれたのが自衛隊の救援物資の配布方法ではなかったかと思います。
それは実際に救援物資を受け取った被災者からも聞かれた感謝で、午前中に被災した地域を自衛隊員が廻り、細かく必要な物資の情報を聞き取り、それが翌日には届けられたことに対する驚きと感謝は被災者だけでなく、その様子をTVなどが取り上げることにより、多くの国民がそのキメ細かい対応に驚いたのではないかと思います。

しかし、考えて見れば自衛隊に限らず軍隊が持つ機能の最も重要なものがこの兵站機能で、必要なときに必要な部隊に必要な物資が届けられることが戦闘を継続することができる最大の要素で、これがなければどんな最新鋭の装備も役に立たなくなってしまいます。
彼らが実際にそうして各戸を廻り、聞き取ってきた情報は、トイレットペーパーからハエ取り紙に至るまで様々な物資の要求なのですが、それがコンピュータにインプットされ実際の救援物資の集積場所から必要な場所に移送される手順は、扱うモノこそ違え、自衛隊がどの部隊であっても日常から訓練している戦闘時の補給訓練の延長線上にある作業だったのです。

この戦時のロジスティクスが最も優れていたのが米軍で、第二次世界大戦時にその基本的なシステムが確立されたと言われています。

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米軍は基本的に自国内での戦闘を想定しておらず、それは現在も変っていないのですが、彼らが考える戦争は常に海外でのものでした。そのためにはいかに迅速に大量の物資を運ぶかという点が重要で、戦時に建造されたリバティ型と呼ばれる戦時標準輸送船は2700隻以上にのぼりました。

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そしてそれらの輸送船で港まで運ばれた物資は、あるときはC-47型輸送機(DC-3型旅客機の軍用型)で空輸され、またあるときはGMCの大型トラックで前線近くまで輸送されました。米軍の取る戦術はこれらの物資輸送ルートが確保されることが前提で、日本もドイツも米軍との補給戦争に敗れたと言っても過言ではないのです。

ドイツが開戦初頭に実施した電撃戦(ブリッツ・クリーク)は補給を考えずに最初の装備のみで相手に反撃する間を与えずに一気に侵攻するという作戦で、長期戦となってしまった対ロシア戦では、結局補給が間に合わずに敗退を余儀なくされてしまいました。
日本に至ってはガダルカナルやビルマ戦線を例に取るまでもなく、全ての戦闘地域において戦略的な補給という考えなく部隊をただただ送り込み、米軍は日本海軍の軍艦よりも輸送船を重点的に攻撃して来るのに対して、その輸送船をまず守るという戦術はなく、敵の輸送船よりも戦闘艦艇を攻撃することのみに終始した結果、前線への補給が途絶え、全ての戦線において戦闘で戦死した兵隊よりも戦病死や餓死した兵士の方が多いという悲惨な結末でした。
「お国のために」戦った兵士と言えば全くその通りですが、その実態は日本軍の兵站に関する戦略の欠如から兵士を殺してしまったので、日本の戦没兵士の半数以上は敵に殺されたのではなく、軍部の指導者に殺されたのが実際なのです。

ハリウッドのデタラメ戦争映画で描かれていた、敵と対峙するタコツボの中の兵士にちゃんと手紙が届いたり、クリスマスに最前線で戦う兵士に七面鳥が配給されたりしたのは決してデタラメではなく、米軍の兵站機能の為せる技であり、実際にガダルカナルで日本軍が餓死寸前でトカゲやミミズを食べているときに、米軍兵士は野戦用キッチンで調理された料理を食べ、冷えたビールを飲んでアイスクリームを食べていたのです。

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そしてその末端の物資輸送を支えたのがこのDUDGE 3/4ton Weapon Career 四輪駆動トラックで、Jeepに負けず劣らず米軍を戦勝に導いた貢献車なのです。Jeepがその軽量さと機動力を生かして活躍したことに対して、このトラックはもう少し大きいサイズで、ちょうど一個分隊(8名)が乗車して移動できるサイズでした。また四輪駆動であることから泥濘地での走破性も良く、幹線道路を外れて前線近くまで物資を運ぶには最適なサイズのトラックでした。

DUDGE Weapon Careerは大別するとWC51と呼ばれるフロントにウインチのないものと、WC52と呼ばれるウインチが装備されているものに分かれます。またその構造は様々なボディを架装することが可能であったことも特徴で、Jeepと大きく異なる汎用性を持っていました。

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こちらはWC54と呼ばれる野戦救急車です。隣のJeepと比べるとその大きさが分かるかと思います。

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これはWC57というCommand Carです。ジープよりも大型であるために居住性が良く、猛将と言われたパットン将軍が移動用に愛用したことからパットン・カーとも呼ばれています。

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Weapon Careerと言うだけあってこのWC55型は37mm対戦車砲を装備したタイプです。これは標準タイプとして生産されたものですが、戦場で応急的に改造されたものは数多く、M2機関銃をハリネズミのように装備したりしたものも存在しています。

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基本設計が優秀であったこのDUDGE Weapon Careerはそのラダーフレームを延長し、後輪を二軸として六輪駆動にしたタイプも生産されました。これはWC62、63型と呼ばれているのですが、基本設計がさらに積載量を増やす余力があったことが分かります。

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物資は戦闘に必要な場所に行き渡ってこその物資で、輸送船、輸送機、大型トラックに加えてこうした小回りの効く小型の輸送トラックがあってこそ、最前線へ物資が補給できるので、これらの輸送手段を全て揃えていた米軍は、個々の戦闘で負けることはあっても総合的な戦争に勝つことができたのです。
そして、その戦場でのロジスティクスのノウハウは戦後に民間のロジスティクスに転用され、それが日本人の緻密さによって進化したのが現在の宅配便のシステムなのです。

私達が軍事と無関係だと思っている日常の様々なシステムが実は戦争によって生まれ、そして進歩してきたことは意外に知られていませんが、JeepやWeapon Careerはこうした日米の兵站戦略の差だけでなく、現在の宅配システムのことまで考えさせてくれるのです。

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Jeepの真価

震災以来、随分と街中で自衛隊の車両を見かけることが多くなったのではないでしょうか。以前は駐屯地がある地域では普通の光景であったかもしれませんが、被災地の支援に向かう車両が自衛隊に馴染みのない地域を通ることにより日常では殆ど自衛隊の車両を見たことのない人々にも随分と一般的になったのではと思います。

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私が住んでいる地域(東京の城北地域)には近くに駐屯地が二箇所あるために、自衛隊の車両には日常から馴染みがあるのですが、最もポピュラーな車種がこの1/2tトラックと呼ばれるパジェロベースの汎用小型車両です。
本来のJeepとは似ても似つかない外観なのですが、それでも一般のヒトには小型軍用車両=ジープと呼ばれているようです。

それほどまで一般的な名称となったJeepなのですが、本来Jeepは1940年にアメリカ陸軍の公開仕様による緊急調達計画により誕生したクルマです。きっかけとなったのはドイツ軍がポーランドに侵攻する際に活躍していたキューベルワーゲンであったと言われています。

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キューベルワーゲンは4駆ではなくRR方式だったのですが、その軽量故に泥濘地でも走行することができ、連絡、偵察、人員輸送に大活躍したのですが、当時のアメリカ陸軍にはそのような車両がありませんでした。
当時の陸軍の要求仕様は厳しく、四輪駆動で、タイヤ三本で100km走行できることや車載工具で全ての修理が可能であることに加えて、最も厳しい要求が車重が585kgというもので、戦地への輸送を考えた要求仕様でした。
これらの仕様の実現を検討したアメリカのフォードやGMといった大企業は軒並みギブアップしてしまうのですが、そんな中にあってチャレンジしたのはウイリス・オーバーランド社とアメリカン・バンタム社という中小メーカー2社という有様でした。しかも、ウイリス・オーバーランド社も途中でギブアップするという状態で、残されたアメリカン・バンタム社は車重以外の要求条件を何とかクリアし、試作車の製造にまで漕ぎ着けたのですが、陸軍はアメリカン・バンタム社の製造能力に危惧を抱き、それ以降の試作はアメリカン・バンタム社の設計をベースに、フォード、ウイリス・オーバーランドの2社を加えて三社での試作となりました。そして各社の試作車が実戦に投入され、最終的に勝ち残ったのがウイリス・オーバーランド社のもので、以降はこれをスタンダードモデルとして各社で大量生産され、結果として第二次大戦中に65万台以上が生産されることとなったのです。

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連合軍を戦勝に導いた兵器の一つとして挙げられるのがこのJeepなのですが、この急造で設計されたJeepには大きな弱点がありました。それは防水問題で、アメリカが第二次世界大戦に参戦してイギリス軍とドイツ軍のロンメル軍団が激戦を繰り広げていた北アフリカ戦線に初めて上陸したアメリカ陸軍のJeepは防水が不十分で、その多くが海岸線で立ち往生してしまったと言われています。
その戦訓からアメリカ軍はアスベストグリースと耐熱セメントを用いた防水キットを開発し、以降のJeepには防水対策を施したのですが、それでも不十分でこのWillys MB型と呼ばれるタイプは防水問題に苦しめられることになります。
しかし、アメリカ軍あるところにJeepありと言われるほど重宝したのも事実で、あるときは解放のシンボルとして、またあるときは占領のシンボルとしてJeepの姿は多くの人たちの印象に残るだけでなく、その整備のし易さや使い勝手の良さから復興のための車両として活躍することになります。

それは「ロールアッププログラム」と名付けられたもので、戦場で全損と判断された車両を占領国に引渡し、修理をさせることにより、その車両を払い下げるというもので、このプログラムが最も機能したのが日本だったのです。戦後の日本はこうして米軍の車両を整備することにより自動車整備の技術を学ぶとともに、その設計技術をも吸収したのです。

第二次大戦が終了したために、米軍には多くの余剰のJeepがあり、防水問題を改良した新型車両開発のニーズはあったものの、とてもそれに着手できる財政状態ではなかったのですが、朝鮮戦争の勃発により急遽開発のゴーサインが出されることになります。そうして開発されたのがM38と呼ばれたJeepで、設計段階から完全防水仕様とされていました。

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余程懲りたのかその防水対策は徹底されたもので、完成したM38はDeep Water Fording Kit(吸排気用シュノーケル)を取り付けるだけで、約1.9mまでの水中走行ができるほどになりました。
しかし、当然製造コストは上昇し、Willys MBの製造コストが当時700ドル前後($=360円で252,000円)!!であったことに対して、1台あたり約3倍の2,162ドルとなってしまい、米軍ジープの中で最も製造コストの高いジープとなりました。
M38は上陸作戦や渡河作戦で立ち往生した米軍の苦い経験を吹き飛ばす「究極の」Jeepだったのですが、結果としてその生産台数はたったの6万台にしか達しませんでした。
その理由は何と日本の整備能力で、朝鮮戦争の際に日本は前線から後送されてきたJeepを始めとする軍用車両を修理するだけでなく、日本人の勤勉さからより完璧な防水対策を施したために、新車のWillys MBよりも破損して日本で修理されて戻ってきたものの方が性能が良く、結果としてWillys MBで朝鮮戦争を乗り切ってしまったのです。

これほどまで活躍したJeepなのですが、連合国、特に米軍の戦闘における決定的な優位性はこうした個々の兵器の性能だけではなく、その用兵思想にあります。実は連合国の戦勝に貢献したのは兵站(補給)に関する考え方の差で、日本はその補給戦で負けたと言っても過言ではないのです。

次回はJeep以上に補給作戦に活躍したと言える米軍の車両についてお話したいと思います。

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絶滅危惧種の魅力

歳がバレてしまいますが、私が免許を取った時代はホットハッチと呼ばれるスポーティなハッチバック車全盛の時代でした。
憧れていたのはアウトビアンキA112ABARTHであったり、FIAT RITMO 130TC ABARTHなどのイタリア車だったのですが、もちろんそれは単なる憧れでしかなく、現実的な選択肢は国産の、しかも中古のハッチバック車でした。
友人の裕福な御曹司はゴルフGTIなどに平気で乗っていたのに対して、私のような庶民は国産車でもその中古を狙うしかなかったのですが、幸いなことに当時は殆どの国産メーカーがハッチバックモデルを販売しており、そのラインアップの中には必ずと言ってよいほど、スポーティグレードが設定されていたものです。
トヨタだとスターレットやカローラⅡ、日産だと先日ご紹介したパルサーなどがその代表格で、ホンダのシビックを始めとし、大ヒットしたマツダのファミリアも女子大生に人気がありました。渋いところではいすゞのジェミニ、そして三菱のミラージュなど、まさに「選り採り見採り」という状況で、私と同年代の方はこうした国産ハッチバック車で車歴をスタートした方も多いのではないでしょうか。

しかし時代は流れ、最近はこうしたハッチバック車は軽自動車には見られるものの、それ以外のモデルでは殆ど絶滅してしまいました。どうしてもエントリーモデルと見られがちなボディ形式ではありますが、本来は実用的で使い勝手が良くこれ一台で何でもこなすことのできるボディ形式だと思います。
ヨーロッパではこの実用性からハッチバック形式は人気が衰えることはありません。むしろ以前から究極の実用車は5ドアハッチバックと思われており、セダン並みの居住性に加えていざとなるとリアシートを倒し、リアハッチを開けると広大なラゲッジスペースが出来るために、本来ならばアッパーミドルクラスであるEセグメントに属するモデルにも5ドアハッチバックの設定があるくらいです。

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本日ご紹介するのは、そのヨーロッパで根強い人気のあるハッチバックモデルの中でも最もコンパクトな部類に属する、プジョー106です。

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ライオンのエンブレムで有名なPEUGEOT社は1882年(明治15年!)にアルマン・プジョーにより設立されたヨーロッパの自動車メーカーの中でも老舗中の老舗です。この会社はもともとが製鉄会社であったために様々な金属加工が得意でした。ですので自動車のみならず、自転車、モーターサイクルといった二輪車に加えて、変わったところではペッパーミル(胡椒挽き)なんてものも製造している企業です。1974年に経営不振だったシトロエンを吸収合併し、さらに1979年にはクライスラー UK(旧ルーツ・グループ)及びシムカを傘下に収め、ついには国営企業であったルノー公団を抜いてフランス最大の自動車メーカーとなりました。

フランスの自動車メーカーに限らず、ヨーロッパの自動車メーカーにとって小型車のセグメントはとても重要なマーケットで、各社がその独自性と製品力で鎬を削っています。特にフランスとイタリアはその戦いも熾烈で、小型車=低価格車であっても、単に価格勝負ではなくその性能に加えてデザインや独自性といった要素も重要で、まさに国を挙げての戦いと言ってよい様相を呈しています。
そんな中で1991年に発表されたプジョー106はバランスの取れたエクステリアデザインと必要にして充分な室内に加えて、ホットハッチと呼べる小気味良い走行フィールのため、今尚根強い人気のあるモデルです。
本国では3ドア、5ドアの二種類のボディ形式に、1,000cc、1,100cc、1,300cc、1,400cc、1,500ccディーゼル、更に1,400ccのインジェクション仕様まで多くのエンジンバリエーションを持ち、後に加えられた1,600ccのDOHC16バルブエンジンを搭載したトップグレードのS16が日本に正式に輸入されました。

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この個体はそのS16なのですが、更に日本におけるフランス車のスペシャリストであるSiFoが手を入れたコンプリートモデルです。

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もともとこのクルマは私の以前の勤務先の上司が購入したものです。この方とは20年来のお付き合いなのですが、自転車からヨットまで実に多趣味な方で、クルマ好きなこともあり当初から私とハナシが合いました。奥様も学生時代に510ブルーバード(それもSSS)を新車で購入し乗り回していたという猛者で、ATは嫌いと豪語するほどのクルマ好きで、子育てが一段落して好きなクルマに乗りたいと考え始めていたときに私と知り合ったというワケです。
そんなご夫婦から相談を受けて私が最初にご紹介したクルマはFIAT PANDAでした。当初から興味があったというFIAT PANDAを新車で購入し、主に奥様のアシとして活躍していたのですが、もう少し走行性能を上げたい…というご希望を伺い、次にご紹介したのがこのプジョー106だったのです。
当初はフツーにディーラーからプジョー106を購入するようご紹介するつもりだったのですが、それでは面白くありません。そこで、目をつけたのがこのSiFo-Specialで、Sifoが手がけたスペシャルパーツに加えて厳選したアフターパーツを組み込んだコンプリートモデルは実に魅力的で、こんなプジョー106もあるんですが…とご紹介した途端に気に入られ購入となった個体です。

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ノーマルのS16もボディが強化され充分スポーティなのですが、SiFoはそれでも不満だったようで、フロントにはオリジナルのタワーバーが装備されています。足回りも同時に強化され、スタビライザーは大径のものに交換されています。一方でバネ下重量を軽減するためにSiFoが特別にオーダーしたというブロンズの軽量ホイールは単に機能的であるだけでなく、ブルーのボディカラーに実にマッチしています。

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マフラーは定番のDevilのエンドが装備されているのはマニアの心を擽るドレスアップです。ただ、アイドリングで野太い音がするためにこのマフラーは好き嫌いが分かれるかも知れません。

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コクピットは基本的にオリジナルですが、ABCペダルはアルミ製に交換されています。ここまではSiFo-Specialの標準モディファイ項目なのですが、さらにオーナーはトラベルの長いシフトフィールを改善すべく、クイックシフトを追加していました。
SiFoではこれらの特別装備をアフターパーツとして販売するのが主で、コンプリートモデルは数少なく、これは希少車と言えるのですが、加えてそのメンテナンスの全てをSiFoで受けてきた個体ともなると、このクルマが唯一かも知れません。

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シートはレザーとアルカンタラのコンビで、その座り心地は一度座ると病みつきになるでしょう。そこにはイスに手を抜かないフランス車の伝統が生きています。

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ドライビングフィールは例えるなら軽戦闘機で、特にワインディングでは2000ccクラスのスポーツカーと互角に勝負できる…と前オーナーは喜んでいました。この辺りが前オーナーの美学で、彼自身は大排気量のスポーツカーでの最高速バトルなぞには全く興味がなく、何の変哲もないセダンでスポーツカーを追い回す…とか、排気量の小さなクルマで大排気量のクルマを峠で千切る…などという屈折した勝負が大好きな方でした(爆)
実際にこのSiFo-Specialは箱根で良い勝負を何度もしたそうで、彼のような大のオトナに峠でバトルをする気にさせる数少ないクルマでした。

そんな彼がこのクルマを手放す決断をしたのは「もうトシだから…」とのことですが、一方で後にSiFoを通じて並行輸入したルノー・エスパス!は相変わらず活躍しているそうですので、単に乗る機会が減ったからというのが真相でしょう。

現在このクルマはALFA DEPOTの坂野社長の許にあり、次の「好き者」のオーナーを待っています。
興味がある方は問い合わせてみてください。

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幻の陽光

自動車先進国の中でもイギリスでは多くのブランドが消え、残ったブランドもその名前を残すのみで自国の資本ではなくなってしまいました。あのロールス・ロイスもMiniも現在はBMW傘下ですし、ジャガーはFord傘下でさらにその行く末は不透明な状態です。かつてご紹介したアストン・マーティンも現在は投資家集団によって経営されています。
一方で消えてしまったブランドも枚挙に暇がなく、その中の一つが今回ご紹介するSunbeamです。
なぜ今回Sunbeamを取り上げようかと思ったのかというと、昨年訪れたイベントでトヨタ博物館が所蔵する1922年 Sunbeam Grandprixを見たからなのですが、これほどまでの先進的なメーカーが何故消えていかざるを得なかったのかに興味を持ったからに他なりません。

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Sunbeam Motor Company Ltd.は1905年にイギリスで設立されました。創業者のジョン・マーストンは自転車製造で成功した人物で、その技術の延長線として自動車製造に参入したのですが、1909年にSunbeam社に加わったルイス・コータレンはレースが技術を進歩させるという信念のもと、レースカーを開発し様々なレースに参戦するようになります。
こうして進歩したSunbeam車はロールス・ロイスやベントレーと並ぶ少量生産の高級車メーカーとしての地位を確立するようになったのですが、ロールス・ロイスが例のパルテノン宮殿を模したと言われる特徴あるグリルと豪華なコーチワークによる様々なボディデザインで派手であったことに比べると、どちらかと言うと地味で控えめなデザインでした。
第一次世界大戦の軍需景気の中でSunbeam社は発展したのですが、第一次世界大戦後はより経営基盤を強固にするためにフランスのダラック社と合併することとなります。ダラック社はアルファ・ロメオが最初にライセンス生産したほどのメーカーでその技術力には定評があるメーカーで、すでにイギリスのTarbtot社を傘下に収めていたダラック社は、Sunbam-Tarbot-Darracq社としてイギリスとフランスにおいて自動車生産を行う大企業となります。
Sunbeamはこれで安定した経営基盤を得ることができ、1920年代はまさにSunbeamの光り輝く時代でした。

しかし、1929年に始まった世界大恐慌を、STD(Sunbeam-Tarbot-Darracq)は生き残ることができませんでした。1935年には同社は破産管財人の手に渡り、ウイリアムズ・ルーツ(William Rootes)に売却されることになります。その売却時点で商業的に上手くいっていたSTD生産車種はTarbotだけで、Sunbeamのモデルは斜陽となっていました。
当時、後のジャガーを設立するウィリアム・ライオンズはSunbeamを買い取ろうとしますが不調に終わり、後にジャガーを設立することになるのですが、もしこのときにSunbeamがウイリアム・ライオンズに買われていたら、後の運命は大きく変わっていたかも知れません。

さて、新たに傘下に入ることになったルーツ・グループは現在のバッジエンジニアリングの先駆者で、同じ量産シャシーに異なる車体とエンジンを架装して別々の市場に投入し、それまでのブランドイメージをうまく利用しながらコストを抑えて利益を上げることを得意としていました。
その方針に従い、第二次世界大戦後にSunbeam-Tarbotというブランドで開発投入されたのがSunbeam-Tarbot80と90で、さらに1953年にはSunbeam-Tarbot90をベースとしたスポーツモデル、Sunbeam Alpineが発売されます。
そして、さらに二代目となる1959年発売のAlpineをベースにフォード製のV8エンジンを搭載したモデルがこのSunbeam Tigerなのです。

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そもそものきっかけはキャロル・シェルビーが企画したAC Cobraで、Sunbeam Alpineと同様に小柄なデザインの英国製スポーツカーの非力なエンジンを米国製の大排気量V8に置き換えることにより、北米市場で魅力のあるスポーツカーを作ろうと考えたことにあります。
同じくキャロル・シェルビーにその開発を依頼し、1964年にAlpine Sr.4にCobraと同じフォード260V8エンジンが積まれたTigerがデビューすることになります。

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当初の260V8ユニットを搭載したTiger Sr.1は北米市場で好評をもって販売され、1967年までに6495台が生産されました。

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そして後にCobraと同様に289ユニット(4727cc)を搭載したSr.2に進化するのですが、ルーツグループ自体がクライスラーに売却されてしまいます。クライスラー傘下になったSunbeamにフォード製ユニットを搭載することはできないため、これからの発展が期待されたTigerは終焉を迎えることとなります。

クライスラーは既に買収していたSimcaとルーツを統合し、「売れ筋」の車種を残して販売しようとしますが、そもそも継ぎ接ぎで生き残ってきた各ブランドに「売れ筋」などという車種は残っておらず、結果としてその全てのブランドが消えていったのは当然のことでした。

現実的には最後のSunbeamと呼んでよいこのTigerにはそれでも古き良きSunbeamの名残が残っており、各所にその魅力的なディテールを見ることができます。

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この個体はハードトップを装備していますが、簡単に脱着することができ、ソフトトップとすることが可能です。

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最大の魅力はこのテールで、当時良く見ることのできた縦長のテールレンズとそれに続くフィン状のリアの処理が控えめながらスタイリングのアクセントとなっています。

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Tarbotミラーと呼ばれた砲弾型のサイドミラーは当時の英国製スポーツカーの定番とも言えるミラーで、その視界は劣悪だったものの魅力的な装備です。

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室内は当時の英国車定番のレザーとウッドパネルですが、それは豪華なものではなく、むしろチープと言って良い作りです。このことからもSunbeam Tigerはグランドツアラーではなく、あくまでスパルタンなスポーツカーとして企画されていたことが分かります。

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これは標準装備であったのかどうか定かではありませんが、ロックボルト式のホイールであるにも関わらず、センターのキャップはノックオフ式のスピンナーが装備されています。

Sunbeamのように消えていったブランドと現在まで生き残っているブランドの差は、経営が健全だった時代にどれだけそのブランドの独自性を市場で確立したかの違いではないかと思います。
もし、そのブランドイメージがしっかりと確立されていれば、仮にその後の経営環境の変化により売却されることがあっても、ブランドそのものは生き残っていくのではないでしょうか。
残念ながらルーツ・グループが買収したブランドはSunbeamを始め、どれもそのブランドイメージが強固なものではなかったために、結果としてその全てのブランドは消えてしまいました。
もしSunbeamがAC Cobraと同様にこのTigerをうまく発展させ、スマートなスタイリングにパワフルなV8エンジンを搭載した魅力的なスポーツモデルを生産し続けていたならば、戦前と同様にSunbeamのスポーツイメージは継承され、今なおブランドとして生き残っていたのではと思います。

太陽の光(Sunbeam)は天気の悪いときにこそしっかりと思い続けなければ、そのまま再び見ることなく夜の闇に包まれてしまうという結末はあまりに皮肉的ではないでしょうか。


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ご当地中華の悲哀

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ALFA・DEPOTの坂野さんのところにお邪魔していると、何やら他の在庫車とは全くそぐわないクルマがビニールカバーをかけられて大切に置いてあるのを見つけました。
それは、アストン・マーチンV8というモデルで、個人的には最もアストン・マーチンらしい最後のモデルだと思っている大好きなクルマだったのです。

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アストン・マーチンほどそのブランドをうまく引き継いだメーカーはないと思います。元来のアストン・マーチン社は1913年創業と歴史の旧いメーカーで、その創業の地であるAston Clinton村の名前と創業者であるLionel Martinの名前を合わせて名づけられた会社です。
第二次大戦前までは堅調な経営だったのですが、多くの自動車メーカーがそうであったように、戦後は経営不振のため倒産の危機に陥ってしまいます。しかし、実業家であるDavid Brownの経営参加により建て直され、当時のモデル名には彼のイニシャルであるDBという名前が付けられていました。
この1950年~60年代におけるDBシリーズの成功はアストン・マーチン社の歴史の中でも最も輝かしい時代だったのですが、1970年代になって再度の経営不振に陥ります。David Brownは経営から離れ、様々なオーナーの間をたらいまわしにされた後に、1987年にフォード・モーター社がアストン・マーチン社を買収することとなるのですが、フォードは再びDavid Brownを役員として招聘し、アストン・マーチンは再びDBで始まるコードネームを復活させたDB7を発表します。
それまでの伝統はあるが古臭い、好事家以外は見向きもしなかったアストン・マーチンはこのDB7により、フェラーリやランボルギーニ、ポルシェと並びエキゾチックカーの市場で好調に販売台数を延ばすようになりました。
しかし、フォード社本体の経営環境の悪化により、2007年には再度売却され、現在はWRCで活躍するプロドライブの創設者でF1のB・A・Rにも関わったデビッド・リチャーズやクウェートの投資会社2社などにより構成される投資家グループのもとで経営が行われていますが、フォードグループの時代に確立された路線は継承され現在に至っています。

このようにアストン・マーチンはその社名こそ連綿と引き継がれていますが、その経営母体は流浪の民のように転々とし現在に至っています。そこにはフェラーリやポルシェのようなエンジニアリング上の連続性はなく、唯一黄金時代であった初期のDBシリーズの名前こそがアストン・マーチンのブランドを形成していると言って良いでしょう。そしてフォードはそれを良く理解していたために、うまくそのDBシリーズの栄光を引き継ぐことに成功し、現在のアストン・マーチンの復活に結びつけたのです。
熱烈なアストン・マーチンのファンの方からお叱りを受けるのを承知で言わせていただければ、DBシリーズ初期のDB1からDB6(DBS)と現代のDB7以降のクルマとの間には、エンジニアリングの連続性に関しては何もないと言えます。現代のアストン・マーチンはその独特の下膨れのラジエーターグリルの形状によりアストン・マーチンであることが引き継がれたのみで、万人が見てアストン・マーチンに「見える」というだけのクルマです。
しかし、ブランドとは元来そういうもので、少なくともフォード社の方針は見事にそのブランドの本質を利用したと言えますし、現在のアストン・マーチンの成功はそれが過去のアストン・マーチンと無縁であったとしても、ブランド・マーケティングの理論に基づく理想的な成果であると思います。

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前置きはさておいて、坂野さんのところにあるこのV8ですが、その名前から分かるようにDBが付かないモデルだということは、Devid Brownが会社を手放した後の、しかもフォードが買収する前の時代・・・すなわちアストン・マーチンがどん底だった時代のモデルです。
しかし、このV8はそのオリジナルデザインがDBSであったことから、「最後のアストン・マーチン」と呼ばれているのです。
DBSはそれまでのちょっと古めかしい、ボンドカーで有名なDB6とは全く異なり、アストン・マーチンが当時のライバルであったマゼラーティ、フェラーリ、ランボルギーニといったイタリアの高級GTカーと市場で勝負すべく開発されたモデルでした。しかしその努力も遅きに失し、このマーケットはランボルギーニ・ミウラが先鞭をつけたミッドシップエンジンの時代に移ってしまっていました。アストン・マーチンからすると近代的なDBSもフロントエンジンであるが故に流行から取り残され、アストン・マーチンの経営はさらに悪化し、1971年にDavid Brownはついに経営を投げ出してしまいます。そして残されたDBSは新しい経営者の許で、1972年に大幅なフロント部分のフェイスリフトの後、V8という「まんまの名前」で販売されることになりました。

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元来のイギリス人の気長さと新型車の開発資金がないことから、このV8は1972年から1989年まで17年間に亙り製造されたのですが、その細かなバリエーションは大別するとSr.1からSr.5までの5種類に分かれています。初期のSr.1と2はインジェクションモデルで、その整備性と信頼性の悪さから、Sr.3以降はウェーバーの4連キャブレターを装備する・・・という時代に逆行する進化を遂げるのですが、搭載されたエンジンはその名前の通り、V型8気筒5340ccエンジンで4カム(DOHC)という開発当時からするとなかなかのものです。

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エンジンパワーは公表されていないないので不明です(笑)
そんなバカな・・・と思われるかもしれませんが、当時のアストン・マーチン社はロールス・ロイス社と同様にエンジンパワーを公表しない主義でした。有名な逸話ですが、ある顧客がロールス・ロイス社に自分の愛車の馬力について問い合わせたところ返ってきた答えが・・・、

「お客様の必要にして充分なパワーでございます」

というものだったそうです(笑)

ハナシが脱線してしまいました。このように公表されてはいないものの、シャーシーダイナモによる計測だと280hpとも340hpとも言われています。その数値そのものは「まぁそんなもの」ですが、その排気量からトルクは充分で、1800kgの車重を0-400mの加速が14.3秒で、最高速度258km/hまで持って行ったのですから、確かに「必要にして充分」でしょう。

トランスミッションはクライスラー製の3ATとZF製の5MTが用意されていましたが、クルマの性格上からするとこの堅牢な3速ATのほうがマッチしていると思います。

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内装はイギリスの伝統が顕著で、小牛5頭分と言われたコノリーレザーで仕立てられています。パネルもSr.3までウッドではなく結晶塗装ですが、Sr.4以降はウッドパネルが貼られ、一度乗り込むと伝統的な英車ワールドを楽しむことができます。

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アストン・マーチンV8はイギリス人が北米のマーケットを意識して作り上げた、「アメリカ人から見たイギリス車とは何か?をイギリス人が考えたクルマ」だと言えます。さらにもう一歩進めて、アストン・マーチンはアメリカ人が好む味付けを加えて、より受け入れやすくアレンジした、所謂「ご当地中華」のようなクルマではないでしょうか。その土地の人々の嗜好にあわせて味付けをアレンジされた中華料理は大衆料理ならアリですが、高級食材を使った本格中華ではなかなか成立しないのと同様に、アストン・マーチンのような高級車マーケットにおいては過度のアレンジは成立しなかったのかも知れません。

ヨーロッパ的なスタイリッシュな外観を、スーパーレジェッラ工法という細い鋼管にアルミパネルを溶接して行くイタリアのカロッツェリアの手法で製作し、アメリカ人の大好きなビッグボアのV8エンジンを搭載しながらもアメリカ製のOHVエンジンとの差別化を図るために4カムとし、しかもそれはパワーアシスト付きのステアリングとATにより誰でもイージードライブでき、そして内装はコノリーレザーとウッドパネル(後期)で英国情緒を味わってもらうという・・・、
当に「至れり尽くせり」なアメリカ人の理想とするヨーロッパ製GTがこのアストン・マーチンV8だと思います。
無節操と言えばそれまでですが、個人的には決して嫌いではなく、むしろこのスタイリングにちょっとマッチョ風のフロントマスクは良く似合っており、今となっては手頃な値段でもあるこのアストン・マーチンV8は気になるクルマでした。

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しかしこのサービス満点の(苦笑)V8は、アストン・マーチンのラインアップの中では最も多く販売が見込めるモデルであるにも係らず、その製造台数はオープン版の”ヴォランテ”とハイパワー版の”ヴァンテージ”を加えても3300台余りにしかなりませんでした。確かにこれでは経営が成り立つハズがなく、前述のようにフォードに売却されてしまうことになります。

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この個体は1975年に製造されたSr.3と分類されるモデルで正規輸入車でした。

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フェンダーミラーは当時の日本仕様のオリジナルで、とにかくオリジナル度の高いクルマです。
坂野さんはこれまたコツコツと手を入れて、永年に亙ってこのクルマを仕上げてきたそうなのですが、そのかいもあって私が今まで見たアストン・マーチンV8の中でも(と言っても3台程度ですが)一番の程度でした。

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意外に大きいボディサイズに慣れてしまえば、トルクフルなエンジンとZF製よりはるかに壊れないATのせいもあり、運転もし易いクルマだと思います。
こんなアストン・マーチンがガレージに佇んでいる暮らしも素敵だと思いますが、私自身は・・・ますますアヤシイ人に見られてしまいますので我慢することにしましょう(苦笑)

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テーマ:旧車 - ジャンル:車・バイク

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