アルファ・ロメオを傘下に納めたFIATは徹底した合理化を推進します。それはFIATとのシャシー共用による新型車開発で、アルファ・ロメオはそれまでの「伝統の」FRレイアウトと決別する代わりに、ようやく生産設備を近代化することができました。
こうして開発されたはアルファ155はFIAT Tipoとシャーシーを共用するFFレイアウトのBerlinaでしたが、アルファ・ロメオのスポーティイメージが薄いことから市場の反応は否定的で販売は伸び悩みました。そこでアルファ・ロメオはこのアルファ155をベースにした
1996年 155 V6TI をレースに投入し、スポーティイメージを上げることにします。
ドイツツーリングカー選手権(DTM)に初出場した1993年にいきなり年間チャンピオンを獲得するという快挙を成し遂げたアルファ155はその後も勝利を重ね、久しぶりに勝ちまくるアルファ・ロメオにようやく市場もアルファ・ロメオの復活を認めることになるのです。
1996年 155 V6TI "TV Spielfilm" 本格的なアルファ・ロメオの復活はアルファ156の成功によって確立されました。続くアルファ147はさらに製造品質が向上し、この2車種によりアルファ・ロメオは完全に経営を建て直すことができたのです。
そしてそのどちらにも、ホットバージョンが設定され、
2003年 Alfa147 GTA Cup によるワンメイクレースが開催されました。
2003年 Alfa147 GTA Cup (2003 Champ) もう一方のアルファ156はサーキットに打って出ます。発売当初からツーリングカー選手権に出場したアルファ156はその熟成が進み、ついにETCC(ヨーロッパツーリングカー選手権)のスーパー2000クラスを
2004年156 GTA で制します。
2004年 156GTA (Puebla-Messico 2006) 新世代のアルファ・ロメオはGM製のエンジンをベースに設計されることとなりました。
2005年 Alfa159Q4 3.2 JTS は、ジゥジアーロによるコンセプトカーBreraのフロントマスクをデザインモチーフとしたBerlinaで、アルファ156とアルファ166の二つのモデルの後継車という位置づけです。
そのBreraも発表が待たれていたモデルです。コンセプト段階で多くのアルファ・ロメオファンを魅了したにも係らず、市販化が遅れ、もはや「お蔵入り」か?と心配されたのですが、アルファ159とシャーシーを共用し、
2005年Brera 3.2 JTS V6 Q4 として発売されました。
そしてさらに待ち望んでいたモデルが
2006年 8C Competizione ではないでしょうか。アルファ・ロメオはいつの時代にもその節目にこういったイメージリーダー的なクルマを製造し、これからの進む方向を具体化して提示して来ました。
8C Competizioneは、アルファ・ロメオが例えシャーシーやエンジンが何であろうと、これからもアルファ・ロメオであり続けることを示唆しています。
「こんなのが作れるんだから、俺達は大丈夫だよ」
とファンに向けたメッセージが聞こえてくるようなモデルだと思います。
こうしてミニチュアモデルでとは言え、改めてアルファ・ロメオ100年の歴史を振り返って見ると、アルファ・ロメオがどんなクルマを作りたかったのかが分かります。
アルファ・ロメオはイタリアの誇りであり、単に「速い」だけでなく「美しく速く」なければなりません。それが例え無骨なBerlinaであったとしても、アルファ・ロメオのエンブレムを付ける以上はエレガントである必要があるのです。
過去全てのレースでの勝利は、現代のアルファ・ロメオのオーナーにとっても誇りであり、アルファ・ロメオであれば、ちゃんと自分の愛車がその数多くの勝利の末に存在していることを知ることができます。
そしてかつてヘンリー・フォードが言った様に、「アルファ・ロメオが走り去るときに帽子を取る」という尊敬を受けるに値する数少ないブランドがこのアルファ・ロメオではないかと思います。
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「本業そっちのけ」のレース活動により、さらに経営状態の悪化したアルファ・ロメオは、公的資金が注入され、イタリア政府管轄下に置かれていましたが、その政府の経済復興政策の一環としてイタリア南部の産業振興をすることとなりました。イタリアは北部に工業、商業が集中しており、南部との経済格差は悩みの種だったのですが、その振興策として命ぜられたのが、ナポリに新工場を建設し自動車を作るというものだったのです。
こうして生まれた
1972年 Alfasud T.I. Trofeo (Varano de' Melegari 1976) は、当初ノルド(北)で製造されていなければ、アルファ・ロメオではない・・・とまで言われましたが、そのコンパクトなボディとFFとは思えないハンドリング性能からたちまち好評を博するようになります。
そしてアルファ・ロメオはAlfasudの性能をアピールするためにワンメイクレースを企画し、著名なドライバーに運転させたりするキャンペーンを実施しました。
1972年 Alfasud TI Trofeo Alfasudは3ドアハッチバックに加えて、Sprintと呼ばれるスリークなクーペも加えられました。
1976年 Alfasud Sprint Trofeo (Zandvoort 1983) はAlfetta GTにも通じるデザインで、ハッチバッククーペという形式は当時のデザイントレンドとなり、当時の他車のデザインにも多くの影響を与えました。
一方、ミラノでもやっとAlfetta Berlinaに続いてSprintボデイと言って良いGTが発表されます。
1976年 Alfetta GTV 2000 のデザインはジゥジアーロで、Giulia Sprintと同様に4座クーペとしてGiulia以上の居住性を有しており、さらにハッチバック方式による使い勝手の良さも加わり、実用性を兼ね備えたクーペとして高く評価されました。
当然のことながらこのAlfetta GTはGiulia Sprintの後継モデルとしてサーキットでも活躍するのですが、当時アルファ・ロメオはTipo33にそのレース資金の殆どを注入していたために、Alfetta GTのレーシングカーとしての改良は進みませんでした。そのためAlfetta GTはラリーを中心にレース活動をしたのですが、その活動範囲は限られておりターマック(舗装路)中心のラリーでしか上位に食い込むことはできませんでした。
1976年 Alfetta GTV 2000 (1978 Sanremo) このように経営そのものは苦しい中にあって、アルファ・ロメオはそれでもレース活動を続けていました。Tipo33プロジェクトはそれに替わるものがなかったとは言え、結果として10年近くも続けられ、当初のプロトタイプではGiuliaの4気筒エンジンに始まり、V8エンジンを経て水平対向12気筒エンジンにまで発展し、更に
1977年 Tipo33 SC12 Turbo はその12気筒エンジンにターボチャージャーを搭載するまでになりました。
アルファ・ロメオの開発資金難は深刻でした。ようやく新規に開発した
1977年 Nuova Giulietta もシャーシーを開発する余裕がなく、Alfettaのシャーシーを流用するという苦肉の策で凌ぐしかありませんでした。加えてこのAlfettaのシャーシーはその凝ったレイアウトのせいで製造コストが高く、更に経営を圧迫するのです。
新シャーシーを開発する余裕がないアルファ・ロメオは既存のシャーシーとエンジンを組み合わせて、マイナーチェンジを図るしかありませんでした。
1980年 GTV 6 2.5 (500km di Monza 1982) も従来のAlfetta GTのボディに新しいV6エンジンを搭載したモデルでした。
そして、Tipo33プロジェクトの後にアルファ・ロメオが始めてしまったのが、ナンとF-1だったのです。当初はエンジン供給のみだったのが、それで収まらずにシャーシーも自社開発し、気がつけばフルコンストラクターとしてレースに臨んで行ったのです。
1981年 179C 腕利きのドライバーが乗ったマシンは上位に食い込むことがあったものの、絶対的な資金不足のためマシンの信頼性が上がらず、その成績は振いませんでした。そしてついにレギュレーションの変更により撤退を余儀なくされてしまい、戦前のGPレースから続くアルファ・ロメオのF-1参戦の歴史は再び長い中断期間に入ることになります。
1981年 179C(G.P. del Nurburgring 1981) 販売の不振とレース活動の経費増大によりアルファ・ロメオの経営は倒産状態となってしまいます。それでも企業活動を続けることができたのは、政府による資金注入のおかげだったのですが、それでもさらにF-1にまで参戦し、またそれを許されたのはアルファ・ロメオがレースにより名声を獲得し、それを販売に結び付けてきたからに他ならないのですが、一方でそのレースに勝てないのですから、アルファ・ロメオにはもはや打つ手はないかに見えました。
頼みの新型車
1987年 75 Turbo Evoluzione IMSA もぞれまでと同様にAlfettaのシャーシーを流用するしかなく、多くの制限を受ける中での開発だったのですが、その製造コストの問題を除けば基本に優れたこのシャーシーによる新型車は、何とか世間水準の性能を発揮していました。しかしそれでも経営状態を改善するほどの販売には至りませんでした。
経営状態が全く改善されないアルファ・ロメオはついに政府にも見放されてしまいます。もはや倒産しかなく、アルファ・ロメオの名前は消えてしまうかに思えたときに、救いの手を差し伸べたのが永年のライバルであるFIATだったのです。
こうしてアルファ・ロメオはFIATグループの一員として1990年代を迎えることとなります。
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1970年初頭はアルファ・ロメオにとっては厳しい時代の始まりでした。営業成績は頭打ちとなり始め、販売を活性化させるであろう次期モデルはまだ先のことでした。それでもアルファ・ロメオはレース活動にのめりこんで行きます。
1970年 Montreal はTipo33用に開発されたV8エンジンを搭載したロードゴーイングモデルとして企画され、モントリオールで開かれた万国博覧会でのデザインスタディが発表されたことからこの車名が付けられました。
1970年代になってもGiuliaはサーキットで活躍を続けていました。
1970年 1750 GT am はレギュレーションの変更に伴い、改造範囲が広がったためにより戦闘力を増したモデルですが、そのアグレッシヴな外観はGiuliaのイメージを一変させていました。
アルファ・ロメオはTipo33のスポーツプロトタイプクラスへの挑戦を続けました。それはもはや執念と言って良く、ポルシェやフェラーリといった強豪がひしめく中で、排気量不足によるパワー不足に悩み続けていました。ようやく排気量を3Lにアップした
1970年 33/3 Coda Lunga (1970 Le Mans) をもってしても、ライバルは5Lの排気量を持っており苦しい状況は変わりませんでした。
それでも、残念ながらこのV8エンジンは排気量3Lが限界でああったため、アルファ・ロメオはTipo33で戦い続けるしかありませんでした
1971年 Tipo33/3 Sport Prototipo のようにパワーをチューニングによりアップさせ、軽量化をすることによってようやく勝利するのがやっとだったのです。
本来ならばこのレースからは撤退するのが合理的な判断なのですが、それでもアルファ・ロメオはTipo33に手を加え続けます。
1971年 33/3 (1971 Sebring) そしてそのことがアルファ・ロメオを資金的に追い詰めて行くことになるのです。
一方のGiuliaのほうも段々戦闘力に陰りが見えて来ました。レーシングカーとしてのチューニングは
1971年 2000 GTAm (24 ore di Spa 1971) が限界でした。
Giuliaシャーシーをベースにして製造された
1972年 1600 Junior Zagato はザガート社が単にデザインをするだけでなく、メーカーの設備では採算の取れない少量の量産車を製造する工場としての第一歩となったモデルでした。少量とは言っても、それはかつてのSZやTZのような手作りの生産ではなく、1000台単位のロットでの生産を意味しており、その設備投資は膨大なものでした。
そしてようやく待望のGiuliaシリーズの後継モデルが発表されます。伝統の名前が名づけられた
1972年 Alfetta Berlina はレーシングマシンのレイアウトを持つ、いかにもアルファ・ロメオらしい贅沢なセダンでした。
Alfetta Berlinaは好評をもって迎え入れられましたが、すでにアルファ・ロメオの経営状態は悪化しており、この新しいシャーシーをベースにしたスポーツモデルの発表は遅れることになります。
1972年 Alfetta Berlina (Rally Model) アルファ・ロメオは市販車の開発を遅らせてでもどうしてもレースに勝ちたかったのでしょう。
1972年 33 TT 3 (Targa Florio 1972) は、それまでのTipo33を更に軽量化するためにスペースフレーム形式に改めます。それは全く別のクルマを開発することでした。
そしてさらに水平対向12気筒エンジンを開発し、
1974年 Tipo33 TT12 (1974 Monza) に搭載します。
もはや本業そっちのけとなってしまいました。
そして最後の最後にチャンピオンシップを獲得するのですが、それはTipo33がデビューした1967年から8年後の1975年
1974年 Tipo33 TT12 (1975 Nurburgring) のことでした。
レース活動に没頭しすぎたアルファ・ロメオの経営は深刻な状態となってしまいましたが、それでもアルファ・ロメオはまだレース活動を続け、ついに禁断の領域に踏み込んでしまうのです。
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今尚、アルファ・ロメオと言えば思い浮かぶのがこの、
1965年 Giulia Sprint GTA ではないでしょうか。
ベルトーネ時代のジゥジアーロデザインによるこの美しいクーペは、単にその外観が美しいだけでなく、後席の居住性も素晴らしい4座のクーペでした。
そしてGiulia Sprintは当然のことながらツーリングカーレースで大活躍することになります。
1965年 Giulia Sprint GTA 1600(1967 Monza) 一方でコンペテションモデルも鋼管スペースフレームにFRPボディを纏った究極の
1965年 Giulia TZ2 が登場します。
ザガートの軽量化技術により、アルファ・ロメオは小排気量ながら高回転/高出力エンジンで、同クラスのライバルだけでなく、大排気量のクルマにまで勝利することができたのですが、その究極の姿が
1965年 Giulia TZ2 (1963 Le Mans) でした。そしてそのことにコダワリ過ぎたことが後年のレースで苦渋を舐めることにもなるのです。
アルファ・ロメオのラインアップにSpiderは必要不可欠でしたが、Giulietta Spiderの基本設計のままのGiulia Spiderではさすがに古くなりすぎてしまったために、Giulia Sprintをベースに新設計され、
1966年 1600 Spider Duetto が発表されます。このSpiderがその後、30年近くに亙り製造されることになるとはその当時の誰も想像しなかったことでしょう。
発表に当たって、公募されたネーミングであるDuettoはその後、他の商標に抵触する恐れが出てきたために自然消滅的に使われなくなってしまいましたが、クルマそのものはピニンファリーナの素晴らしいデザインのため、改良とリデザインを受けながら製造し続けられたのです。
1966年1600 Spider Duetto (Targa Florio 1973) Giulia Sprintのレースでの活躍とは別に、コンペティションモデルであるTZ2はその排気量の問題から苦戦を強いられるようになっていました。アルファ・ロメオは新たなコンペティションモデルであるTipo33プロジェクトをスタートさせるのですが、そのロードゴーイングモデルとして発表された
1967年 Tipo33 Stradale はその流麗なスタイリングから、今尚、アルファ・ロメオの歴代のモデルの中でも名車と称えられるモデルです。
そして、Tipo33のコンペティションモデルである
1967年 33.2 Fleron (1967 Sebring) がレースデビューするのですが、当初はボディの空力問題とエンジンのパワー不足から目だった成績を上げることはできませんでした。そしてアルファ・ロメオはこのTipo33の改良に次ぐ改良で疲弊して行くことになるのです。
一方で量産車は好況を呈していました。売れ筋のBerlinaはサイズアップのニーズに応えるべく、
1967年 1750Berlina (24 ore di Spa 1968) がGiulia Superの上位車種として発表されました。
Giulia Sprintはレースレギュレーションの変化に対応するだけのエンジンラインアップを持っていました。
1968年 GTA 1300 Junior (1968 Mugello) は同クラスのミニ・クーパーを相手に善戦しました。
Tipo33は改良を受け、その戦闘力が増してきました。
1968年 Tipo33.2 Daytona coda lunga (24 ore di Le Mans 1968) は依然としてライバルよりも少ない排気量ではありましたが、その高い信頼性と軽量故の運動性のために、特に耐久レースにおいては勝利を納めるようになりました。
そして1970年代に入ってアルファ・ロメオは経営的に試練のときを迎えることになります。
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1960年代がアルファ・ロメオにとっての黄金時代であったことに異論がある方はいないでしょう。
戦後の量産車メーカーへの転換はGiuliettaシリーズの成功で確実なものとなり、その発展型であるGiuliaに至り、これらをベースにしたレーシングモデルがサーキットや公道レースで大活躍した時代でした。
現在のアルファ・ロメオの礎となったのがこの1960年代で、そのデザインは現在のアルファ・ロメオのデザインモチーフとして引き継がれているのです。
1961年 Giulietta SZ はGiuliettaをベースにしたスポーツモデルの中でも最も有名なモデルです。
ザガートによる軽量で空力に優れたボディデザインはその後のアルファ・ロメオのコンペティションモデルの基本コンセプトを確立しました。
1961年 Giulietta SZ (24 ore di Le Mans 1963) アルファ・ロメオにとって例えどんなにスポーツモデルが有名であったとしても、実際の販売台数で大多数を占めるのがBerlinaと呼ばれるセダンボディでした。そしてそのBerlinaもアルファ・ロメオであるが故にチューニングバージョンを求める声が強く、
1962年 Giulietta T.I.. のようなモデルが製造されました。
そして時にはスポーティモデルを凌ぐ活躍を見せてくました。
1962年 Giulietta T.I.. (1962 Rallye Monte-Carlo) そんな中にあって、ようやく戦前のような大排気量の豪華な車種のニーズも出てきたことを受けて製造されたのが、
1962年 2600Sprint です。この車種はその販売台数も少なく、決して成功作とは呼べないかも知れませんが、アルファ・ロメオにとっては戦前からの顧客に向けたメッセージとして重要なモデルでした。
1962年 2600 Sprint (Bologna-Passo della Raticosa 1968) Giuliettaは排気量をUPされGiuliaへと発展して行くのですが、
1963年 Giulia T.I. Super もそのサイズを大きくした新型のボディデザインとなります。「醜いGiulia」と評されたその独特のデザインは、一見すると単なる箱型に見えるものの、そのディテールは実に細かい局面で構成されており、そのルーミーな室内と相まって味わい深い名車として現在も人気のあるモデルとなりました。
速い「ハコ」の代名詞として、フォード・コルチナ・ロータスと並び称される
1963年 Giulia TI Super (1990 Buenos Aires) は、現代もヒストリックカーレースで活躍しています。
一方で純粋なコンペティションモデルも大きな変革がなされることになります。それまでのモノコックボディからより一層の軽量化を目指して改良された鋼管(チューブラー)フレームを持つ、
1963年 Giulia TZ はたちまち活躍をするようになります。
1963年 Giulia TZ (1967 Mugello) GiuliettaからGiuliaへの発展に伴い、スペシャルモデルであったSprint Specialeも
1963年 Giulia Sprint Speciale へと進化することになりますが、その外観上の変更は僅かで、排気量UPが中心でした。
そして1960年後半になりいよいよGiulia Sprintが登場することになります。
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